魂のまにまに。。。羽黒山伏が思い出させてくれた原点

今日は山岳信仰つながりということで、
羽黒山伏の集いに参加してきました。

地元山形にある三大修験のひとつですが、
出羽三神は小さい頃からお世話になってるので、
冒頭の勤行は出羽山神を拝めてちょっと嬉しかった。
ちゃんと神様いらしてたので。

私の「神域」的な原風景は羽黒神社の並木参道なんだと改めて思いました。
中学くらいの頃、家族で羽黒神社へ行ったんです。

参道に入った瞬間に「うわぁっ」と飲み込まれた。
神様?迷信じゃん?と半信半疑なお年頃にも関わらず
「ここにはいる」
と直感的に感じさせられる、そんな雰囲気。

その空気感にのまれて何かに取り憑かれたように
親と妹を置いてスタスタひとりで駆け上っていった時の記憶が強く残ってます。

だから勤行の奏上中、ずっと意識は羽黒の参道を歩いていました。

というか1週間前からしょっちゅうそっちに意識が飛んでたびたび参道を歩いていました。

色んな流れの中のご縁で木曽御嶽山にお世話になっていますが、
なぜ神仏習合の山岳信仰に学んでいるのかというと

日本人らしさってなんだろう?

そういうことを考え始めた時に日本の信仰心に関心を持ったのがそもそもの始まりなんです。

そしてお爺ちゃん子だった私は、祖父の家の思い出が強く、
そこも小さな部落ですが、奥の山にお不動様が祀ってあって、
正月に雪深い山道を1時間ほど歩いて拝みにいったりしてた。

そういう部分に日本人の「根っこ」を感じていたから、
山岳信仰にたどり着き、そしてすんなりハマったのだと思います。

そういう原点のようなものを今日は思い起こしました。

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会場で星野先達が出版された本を買い、
電車の中で一気に読み通しました。

難しい言葉は一切ないので
身体にスッとそのまま入ってきます。

スッと入るけどかなり深い話が多い。

こういうわかりやすい伝えかたができないとなぁと勉強になりました。

日々に何か物足りなさを感じていたり

物事難しく考えすぎて行き詰まってる気がするかたはぜひ読んでみて下さい^ ^

久々にするりと入ってくる本を読みましたw

直感力を取り戻させる本です!!

【修行日記】触らないで”とる”

修行の中でオカジと呼ばれる施術の行があります。

文字通りで加持祈祷の”加持”をさしています。
整体の仕事を始めたのは、修行のなかで先生や先輩方がオカジをして悪いものをとっており、その修行を私もすることになったからなのですが、、、

「触らなくていいのよ。そこは本質じゃないの。しなくてもとれちゃうの。でも揉んであげたほうがやってもらった感があるでしょ。手当っていう言葉もあるでしょ」
着いた先日、こんなことを師匠にサラリと言われ、

「えっ!?」

と正直一瞬なったのは記憶に新しい。
それまでも「触らなくてもとれる」というのは話に出てきていたけど、
「本質じゃないから」と言われドキッとした。
なんか自分すごい施術にこだわってこの一年がんばってきたのにっっ。

まぁ整体は整体で必要な場合があるから精進するほかないけども、少しベクトルがズレていたかなとちょっと反省するこの頃です。

そんな中、昨日は調子の悪い師匠の様子見に空き時間に伺いました。

修行仲間とその娘さんがいて、娘さんに「高校はでておけ」という話をしてもらいに来ていたらしく、一緒にその話に加わって夜になってしまいお暇することに。
ホントは施術したかったのになぁ〜、、、

と思ったけど来た時の驚くほどの顔のむくみ様から一変して、帰る時はかなりもとの顔に戻っていた。

そのことを先輩にラインで報告すると

「オカジありがとう」

いや、だからやれなかったんだけどなぁと思った直後にはっと気づく。
「触るのが本質じゃないもんね」

ちゃんととったってことなのだろう。
触らずにとる。
今日はそういう修行だったようです。

かつては人だった神々

伊弉諾や伊邪那美、素戔嗚など人格神として語り継がれている神様もいますが、

神様の中にはかつては人だった神様もいます。
例えば天神様で有名な菅原道真。

学問がずば抜けてでき、天皇側近の右大臣まで上り詰めたエリートの道真は周りから妬まれ流刑に処され太宰府に追いやられこの世を去りました。

その後、京の都では落雷で尋常ではない被害を被り「菅原道真の祟り」と恐れられ、天神様として祀られました。

いまでは学問の神様として現世御利益の対象になっていますが、もともとはとても怖い神様だったわけですね。

確実に人間として生存が確認できるところでいえば戦国武将も各地の神社で祀られていますね。
幕末になると私の尊敬する吉田松陰も世田谷及び萩の松陰神社で祀られています。
いまでこそ現世御利益にあやかろうと参拝されてますが、
その経緯をよく調べるととても強い想いを抱きながら無念の死を遂げている神様も多いです。

先にあげた道真はまさに祟り神ですしね。
お願いしたらそのぶんしっかり努力しないと怒られそうです。

吉田松陰なんて愛情厚いぶん、自分にも弟子たちにもとても厳しい方ですからね。

願いが成就したらお礼参りも忘れずに!!٩( ‘ω’ )و

「動かない」という選択もまた行動のひとつ

動かなければ何も始まらないが、
「動かないと不安で仕方ない病」はまたちょっと違う。  
臭いものにフタをする自分。
現実からの逃避。

 

そういう時こそ立ち止まって

「動かないという『行動』を選択する」
というのもまた立派な行動な気がする。
これが個人的には一番厳しく感じ

苦手な修行なんだと思う。
どちらかといえば動きたい派だから。
じっとしてるのは嫌い。
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「動かない」と何も起こらない。
それは違うと、数日前に気づいた。
「1日中道端にたたずむ岩と話しなさい」
仮にこういう禅行のような課題を与えられたとする。
ぱっと考えたとき

「1日何も起こらずムダに終わりそう」
そんなふうに考えてしまうけども

その岩を中心にストーリーを考えると
1日に色んなことが起きることが予想できる。
風が吹き抜け
ジリジリと太陽に焼き付けられ
猫が小便をかけてきて
何十人という人が通り過ぎる。
そんな岩とひたすら対話していれば、
当然色んな人と出会うかもしれないし、
変質者として通報され警察に職質されるかもしれないし
なぜかマダム受けのいい私の場合はマダムが「たくさんお食べなさい」と憐れんでくれてお弁当を差し入れでもらえるかもしれない。
自分が動かなくても

世界は回っているので
それを感じ取れさえすれば

受け入れさえすれば

溶け込めさえすれば

「縁」は発生するんだと思う。
動かない世界にしてしまっているのもまた

自分の観念なのだと思う。
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自分のダメさ弱さをを全てを認めて
受け入れてこそ初めて
他人の言葉も素直に受け入れられる。
相手の言葉に言葉で返して自分を主張したい時ってどこかに自分を「守ろう」とする自分が必ずいるわけで
そういう「守り」すら本当はいらない。
全てを受け止めるおおらかさを持った時に

世界はもっと動き出す。
自ずと動き出す。
そんなことを思い至った。
まだまだ修行が足りませんなぁ。