明日は我が身と思うこそ

この世は諸行無常。

私たちはいつどこで死ぬかわからない。

各地の霊山へ赴く修行者はいつ死んでも大丈夫なように白装束を身に纏いました。

そして途中で力尽きて死んだ方も沢山いらっしゃいます。

そして明日は自分がそうなるかもしれない。明日は我が身。

そう思うからこそ、道端で浮かばれない仏様と出逢えば、その方が成仏できるように手を合わせてお経をあげるのです。

身体がなくなってしまった魂は実体の世界では何もできません。私たちが代わりにお手伝いしなければお経もあげられない。

そしてもし明日自分が突然死んでしまったら、同じ状況になるかもしれません。思い残しややり残しがあって成仏できない状況になるかもしれない。そうなった時、助けてもらえるのは実体世界にいる人たちだけです。

道端の仏様に手を合わせるのは、巡り巡って自分のためでもあります。

そしてここまで説明した時、興味津々に心霊スポットへ足を運び「幽霊っているの?」「ギャー出たー!」という行為がどれほど心無いことなのか少し考えて頂けるかと思います。

TV番組の心霊スポット特番で「悪霊退散」とかやってますが、あれほど野蛮な番組もないです。

ああいう場所に留まる霊は好き好んでそこにいるわけではなく、何か辛い想いや強い想いがあってそこに留まっています。悪霊ではありません。祓えばいいものではありません。その想いを慮ってこその人としての優しさであり、本来私たちが備えている仏心とも言えます。

ぜひ浮かばれない仏様が留まる場所に訪れたら手をあわせて下さい。般若心経をあげれば、尚のこと喜ばれることでしょう。

「全員集合!」彼岸、墓地での祓い

3月はたぶん一番慌ただしい月です。普通に生活してるはずなのに、気付くとひたすらお経をあげてるような感覚に陥る。

東日本大震災とお彼岸。この2つがあるので、黙っていてもお経をあげる機会が必然的に多くなってきます。

今日もお彼岸で津田沼のお墓詣りへ行ってきましたが、墓前でお経をあげはじめると蝋燭がどんどん飛び散って祓いが始まってしまった。

ご先祖様の供養で来てるのに、こちらが供養をしていると周りのお墓の仏様たちもみんなこちらが気になるのですよね。注目の嵐。そこは仕方がない、寧ろお手伝いさせて頂ける喜びを持って、来るもの拒まず、大歓迎でお経をあげさせて頂きました。

「さ、プリンス!やるよ、お願いします!」

観音崎の龍神のお数珠をもって供養開始。

うちの親戚が置いていったものもありましたが、蝋燭を見る限りでは周りの困っている方々も沢山便乗されたご様子。

途中からあげながら「婆ちゃんたちの供養に来てるんだけど、しょうがないよね。悪いけどちょっとこの方達あげるの付き合ってねー。お世話してあげて、笑」と話しながら、婆ちゃんとの共同作業。

私の生まれる一年前に亡くなった父方の祖母は、晩年に骨肉腫で苦しみ、点々と治療家を探し歩いた末にどこぞの行者の先生のもとへ通っていたらしい。

そういう信仰のある祖母だからこそ、一緒に手伝って頂ければ祖母の霊格もあがるというものです。

本来なら阿弥陀経で十分なのですが、我が家だけでは収まりそうもなく、スペシャルアレンジでの彼岸供養でした。

南無阿弥陀仏。

今日のお経

・般若心経

・自我偈

・阿弥陀経

・阿弥陀如来根本陀羅尼

・九聲念仏

・菩提和讃

あれから8年

一昨年から師匠のもとで東日本大震災の供養をさせて頂いております。

三月に入ると色んな想念が混ぜこぜになってやってくるので、この日にしっかりあげさせて頂く。それは亡くなった方々のものだけでなく、残された方々の想いもあり、それらは複雑に交差して絡み合っている。

前日の10日は月島の避難者支援イベントでいつものように楢葉町から避難してきた方々のマッサージ。皆さん笑顔で帰られましたが、「もう帰れない」と決めた方々でした。

帰る人、帰らない人、それぞれの選択に意味があり、当事者以外には見守るしかできない。

私たちができるのは後ろから寄り添ってること。ただそれだけ。。。

今朝は沐浴から始めました。禊は毎朝してますが、なんとなく光明真言あげながらの水行。海の底へも大日の光が届くように、そんなイメージだったかもしれない。

その後の勤行では、やはり蝋燭が勢いよく溶け出した。1週間前からどんどん色んなものが来てるので当日こうなるのは予想していた。しかしなんだろう。蝋燭を見守っているとそれはやがて蓮の花のように広がり海になった。その傍に見守る仏様のような。

午後は師匠のもとでご供養。

そしたら「海底の未だ見つからない御霊への供養で大悲心陀羅尼から始めましょう」とそんな流れに。

あげてる途中で、今朝の蝋燭の海がふと思い出され、師匠の言葉と繋がった。観音様の大悲心の大きな手で、海底に彷徨う御霊を救いあげて下さるように祈った。

「沢山ここを通ってあがっていったわよ。子連れの母親も来たわね。みんなちゃんと玄関から入ってきて『ありがとうございます』って言いながら上がっていったわね」

廻向。死者への供養として捧げるお経は私たち生きるものにとっての智慧でもある。ともすればこの白骨になっていたのは自分自身かもしれない。肉体がなくなれば今世でお経をあげることはできない。その時手向けをして頂くのは自分だ。

そう思えばこそ、亡き御霊と出逢えばきちんと供養させていただく。それは今生とあの世に生じるお互い様の関係なのです。

・般若心経

・大悲心陀羅尼

・観音経

・阿弥陀経

・観音和賛