日本人にとって祈りは基本の一つだと思います。
そうやって難を逃れてきた歴史があるから。
資本主義システムなアメリカにはあまり通用しない気がするが、信仰のある国には或いは。。。
命は平等です。
助かるべき命というものはないし、助からないべき命というものもない。
皆、平等に尊いもの。
どんな偉業を成し得ているとしてもそれは変わらないでしょう。
だから大切にしなきゃいけない。
無関心は罪ですが、しかし囚われすぎるのもよろしくない。
昔からの教え。
執着は時には身を滅ぼす。
たぶん執着した祈りは純粋な祈りとして届かない。
そんなことをふと思うと、やっぱり感謝が大前提、そこにいきつくのかな。
自分の命も大切だし、家族や周りの命も大切だし、命は皆平等なんです。
そういう前提を踏まえていないときちんと届かないんじゃないかなと、ふと思ったのでした。
まずは自分の心をしっかり持っていないと、届くはずの祈りも届きません。
これ、後藤さんの件ですが、知人が心配しすぎで具合悪くなっているようだったので心配しています。
”お客様は神様だ”
横暴な消費者が蛮行を振る舞って問題になっていますが、サービス提供する側も受ける側も、「神様」の意味を勘違いしているから起こっている問題じゃないかなと思います。根本的な問題の話です。日本という国を形作ってきた「神様」に対する認識がおかしくなっていることが問題。
そもそも神様ってなんなのか。一番大切に敬うべきものではありますが、暴力をふるうような権力者などの「偉い」とは根本的に違います。
神様っていうのは時には教えを頂き、時には真摯に頑張った人間に首の皮一枚のお力添えをくれる。そういう存在だから、権力者としての「エライ」とは違うはずです。
「お客様は神様」っていうのはそういう”教えを頂ける存在”だから大切にしなさいっていうのが本来の意味だと想うのです。その根本的な部分を理解しないと話がおかしくなる。これは古来からの日本人の考え方なのに、現代の日本はやはりそれが失われているんですね。
時として自然という神様は猛威を振います。時として神様は想像を絶する厳しい試練を人間に与えます。でもそれは利己的ではない。富でも権力でも欲のためでもない。誰のためか。それを受けるあなたのためです。
一方、神様気取りのお客様は、自己都合で振る舞っているだけでしょう。お店や店員のことを心から心配して叱責しているわけではないでしょう(そういうきちんとした人格者ももちろんいらっしゃるとは思います。)ましてや感謝の気持ちなんて微塵もないんじゃないだろうか。だから、そんな神様は日本にはそもそも存在しないんです。神様に対しての基本的な考え方って「感謝」この一点だけなのですから。
神様という尊い存在が日常生活から、日本人の心から消えかかっている日本においては、一部を除いて、お客様=神様という図式は成り立たない国になってしまっているんじゃないでしょうかね。凄く残念なことなのですけど。「お客様」と呼ばれるべき人間が減っているんじゃないかなぁ。そんなことを考えました。
あなたは日本人らしい「お客様」として振る舞えていますか??
(自戒をこめて)
正月に実家で「本場の秋田はセリの根っこも食べるのよ」と母に教わって以降、セリの根っこを積極的に食べています。始めはセリの根っこがきりたんぽ鍋の泥臭さの肝なんだなと納得いったのですが、食べてるうちに凄く身体が温まることに気づいてしまいました。
「根菜は身体を温める」と言いますが、葉物の根っこも同様の効果があるようです。セリはビタミンCも豊富ですので、風邪予防にも効果的。「最近身体が冷えるなぁ」という方はぜひ、セリの根っこも一緒に食べてみてください。とってもあたたまりますよ。
明日は、いわきから避難している方のお誘いで、こちらの傍聴会に参加してきます。
段々傍聴者も減っているので来てくれるだけでもありがたいとのこと。
私の今年のテーマの一つは「寄り添う」ですので、こういう地味な事にも足を運ぼうかと。
大した力にはなりませんが、これもひとつの支援なのかなと。
山岳信仰の里の行者&鍼灸師です。科学と信仰の統合を。