「祈り」カテゴリーアーカイブ

【新嘗祭×茂る×混沌】

収穫を感謝する新嘗祭

勤労感謝の日は

宮中の神事である
新嘗祭の日が、

敗戦後に書き換えられたものです。

もともとは旧暦11月(新暦の12月中旬〜1月上旬頃にあたる)の
2回目の卯の日でしたが、

明治6年に
太陰暦から太陽暦へ変わる際、
収穫感謝の行事なのに年を越してしまうので、

そのまま太陽暦の11月の2回目の卯の日を定め、それがいまの11月23日であり、そのまま固定されたという、なんとも強引なエピソードがあります。

十二支の起源をみると、
卯は”冒”に由来し、「おおいかくす」という意味があるそうです。

これは万物が成長して、地上を覆い隠す様子をあらわす。

『准南子』でも「卯は茂ることであり、盛んになることである」と記されている。

万物の勢いが盛んになって、生い茂り、地上を覆い尽くす意味が十二支の卯には込められている。

また旧暦十一月は子です。
子も”孳”という漢字に由来し、「うむ」「しげる」という意味になる。

『三礼義宗』では「陽の気がやってきて、しげり始める」とあり、『五行大義』では「陽の気が動き出し、万物が芽生える」様子と述べられている。

子の別号は「困敦」である。

“困”とは”混”、
“敦”とは”沌”を意味しており、
困敦とは混沌をさしている。

冬という時期は子に配当されており、陰の気が極まった状態(冬至ですね)これから陽の気が動き出す時季でもある。

これら由来を踏まえて考えると、本来の旧暦十一月(子の月)の2回目の卯の日というのは、その字の由来通り、

陰極まり陽がうごめく新たに始まる子の月に、

豊作・繁栄を願った日取りだったことが伺えます。

こういう意味を含む日取りに
収穫感謝の神事として新嘗祭は行われていました。

ことしは12月16日(下弦の月)が旧新嘗祭の日取りです。

果たしてこの日がどんな雰囲気なのか、
ぜひ感じてみて下さい。

旧暦 #十干十二支 #新嘗祭 #感謝

【童子×マブダチ×エネルギー】

【童子×マブダチ×エネルギー】

だいぶ日が経ってしまったけど、2月の伊勢帰還後にクラスメイトの新規サロンのお祓い。

このご時世、心身の悩みを抱える人たちが集まれる場所にしたいという想いに共感してお祓いさせていただきました。

同席された方のお子さんが初対面ながらマブダチかのようにずいぶん馴れ馴れしくベタベタくっついてきた。

よくあることだけど
この日は妙に馴れ馴れしかった。

座敷童子のようでもあるし、
眷属の童子だったのかもしれない。

「なにしに来たのー?」
「オハライにきたの」

「塩舐めていいー?」
「どうぞー」

「これなーに?」
「これはシャクジョウだよ」

「あたしも鳴らしていい?」
「はいどうぞ」

(三方を見て)
「あたしこれ知ってるー」
「三方しってるの?すごいね」
「マシュマロ乗ってた」
「マシュマロ?それお餅でしょ?」

と終始ずっと童子様と
やりとりが続きました。

小さい子供は神様に呼応するので
ある種の神様バロメーターとして
いつも観察している。

祓い式の最中に急に
トイレのなかをバシャバシャ
スマホで撮り出したらしい。

トイレの神様でも降りてきたのか、
なんか篭ってた邪気が出ていったのか。

何が写ってるのか気になるところです、笑

祓い給へ清め給へ。

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【科学は尽くす×信仰は委ねる】

【科学は尽くす×信仰は委ねる】

最近、最終的に科学と信仰は

一つになるものだと考えていますが、

科学の基本は信じることではなく

やはり数字に基づいて証明すること。

信じる対象ではないかなと。

あらゆる可能性を考慮して分析する、

つまり”人事を尽くす”分野でしょう。

細かく分解していくと最終的には

量子的な世界

見えない世界

こういうブラックボックスがあるので

最終的に究極の部分は

神にお預けすることになる。

だから昔から人々は祈ってきたのだと思います。

量子の世界は確率論になってくるから

わからないのだもの。

人事は尽くしても

最後は祈るしかない。

そういう視点から見ると

科学とは物質世界であり

信仰とは非物質的世界であり

お互いが補完しあっている。

“人事を尽くして天命を待つ”

という言葉通りの関係なのだと思います。

科学や医学を過信しているドクターの言動を見てると、科学を”信仰”してる印象がどうも強い。

(私が言いたいのは主に和苦沈信奉者のことだが)

データや数字を俯瞰してないんですよね。

信じたいから全体は見ない。

都合の悪いものは見えない。

(見ると過去の罪の意識が湧いてくるから見ないのですが、そここそ本来は信仰の分野なのですが。悔い改めれば良い)

科学に救いを求めてるのですが、

救ってくれるのは神であって

人間が都合よく解釈した科学ではない。

メリットとデメリットの両方を俯瞰することが

(そもそも和苦沈はメーカーにしかメリットがない)

人事を尽くすことであり、

最後の究極は神様に委ねる。

それが本来の医療であり治療だと思います。

科学は信じるものではなく尽くすもの、

そして尽くした最後は神に委ねる。

これが私たちの生きる世界の

構造ではないのかなと考えるこの頃です。

そういう思想で見てると

いまのPCRやら感染経路不明というのも

その本質はすでに明らかになっているので

全く科学に対して尽くしておらず、

実にインチキばかりで

何も委ねようがないなと

呆れ果てるばかりです。

神様も応えようがないよね。