【コロたん×お粗末×イヤミ】

先週からの一山超えて
ちょっと一息ついたのでボヤきます。

昨日「一斉休校」のニュースを知って
政府はサジを投げたんだなと
個人的には思いました。

あまりに現実味がない唐突な話。
この人たち本気で馬鹿なのかな…
と誰もが思ったことでしょう。

面倒くさくなって丸投げしたとしか思えない
配慮がみられない愚作。

こうなる前になぜ初期段階で隔離対策を
きちんとやらなかったのか。

今週になって自分界隈の周りも
凄い騒ぎ始めていますが、
そもそもそれも反応が遅すぎる。

正直いまさら遅い。
気にするならもっと早い段階にしないと。

ベースになってるコロナウイルスは
いわゆるふつうの風邪のウイルス。

ただの風邪やインフルエンザをこれまで徹底的に防ぐことがあったか?
防ぐことができたか?

という現実問題と照らし合わせて考えると
今あたふたやってることや不安は
すべて滑稽過ぎる。

なる時はなる、
手洗いうがいをきちんとして予防する、
それが今回のコロナウイルスという存在。
おそらく新型もそこは変わらない。

これが仮に人為的なものだとしたら
ずいぶん上手く作ったのものだなと
正直関心する。

特別なものじゃなく
ごくありふれたものにすることで
防壁をすりぬける。

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しかし日本人の動きを観察していると
情報社会にいるはずの日本人は
悲しいことに情弱の極みにあるとしか思えない。

一斉休校や外出自粛要請の報道が出た途端、
今日のスーパーは近所でも
トイレットペーパーが売り切れ
なぜかポテトチップスもほぼ売り切れ。

トイレットペーパーって…
いつの話なんでしょう⤵︎

外出控えるから週末ポテトチップスって…
免疫高めておく必要があるのに
ジャンク食べまくってどうするのか。
マスク気にするなら砂糖も控えようよ。

日本人は何やってんだろうなぁ
とアホくさくなっています。

大陸ではコロたんによる肺炎罹患者のための
漢方処方が出されたそうです。

なんやかんやで凄い国なんですよあそこは。
色んな意味で、やる時はやる。
歴史が断絶されて民度の低い国なんて馬鹿にしてる日本人の方がよっぽどです。
大陸を馬鹿にしてる日本人は王朝関係なく 何千年と実は受け継がれてるものが大陸にはあることを知らない。

電車は空いていて快適。
在宅でできる仕事は
この際極力在宅にしてしまって欲しい。
そうはいかない我々のような職種のためにも。

まぁしかし、
世界的な経済打撃の拡がりみると
正直作為的なものしか感じませんな…

ほんと阿呆らしい。

【苦に甘んじる症候群×智慧×視点】

最近「苦しい」「辛い」とばかり呟きながら祈祷してる方のSNSが気になっていたら、

「苦しみ」というのが周りと色々リンクしてきたので苦しみについて考えてみた。

「苦に甘んじる症候群」が存在する。

かつては自分もそうだったなと思いつつ。。。

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だいぶ前に師に

「苦行をすれば修行があがると思うのは大きな間違い」

と言われたことを思い出した。

修行は厳しいことも沢山あるが

苦しさを求めるものではない。

それはお釈迦様がすでに実践して

無意味だと答えを出している。

その意味を考えてみた。

苦は自ら求めるべきでないものだとして、

では避けられない境遇の場合はどうなのか?

仕方ないのだろうか?

回避するための手段を

全て試してみたのだろうか?

根本的な原因を見つけられているのだろうか?

苦に耐えるというのは

一見「やった感」が出てくる。

耐えているんだから自分を褒められる。

「耐える」というのは悲劇のヒロイン思考に陥っていないかに注意したほうがいい。

そしてその耐えている状況を冷静にみたときに

「思考の放棄」をしていないか?

ということに着目したい。

苦行はやった感、満足感が得られるから

その先を考えなくなりがちだ。

痛めつければアドレナリンもガンガンでるから

生理的にみても尚更そういう傾向に陥りやすい。

人間の脳は楽なほうにいきたがる。

思考しやすいほうに流される。

そういったことを踏まえて考えたときに

苦行というのはあまり建設的ではないことに

気付く。

悟りであったり中庸であったり

エネルギーが空の状態であったり

理想がそういうところである以上、

苦行で苦が続いているうちは

それは目的を達成されていないことになる。

苦から解放されなければ

成就とはいえない。

しかし困ったことに「やった感」だけは

得られてしまう。

お釈迦様が苦行をやめたのは

結局そこのように思う。

悟れないのに「オレはやったぜ感」「満足感」を得てしまえば道を見失う。

そして仮に苦行の先で答えが何も見つからなかった場合、いったい誰が幸せになれるのだろうか?

という問題もある。

むしろ周りを不幸にする。

自分が幸せでなければ

他の誰をも幸せにはできない。

犠牲の上に成り立つ幸せも世の中にはあるかもしれないが、犠牲になった人はその中の喜びや幸せを知っているから犠牲になったのであって、寧ろ犠牲とは思っていないだろう。

もし本人が犠牲になったと感じていたら、

それがわかってしまった時点で

結局相手も十字架を背負うので

幸せになることは難しい。

自分の中に幸せがなければ

誰も幸せにはできない。

苦行の成れの果ては

不幸のデススパイラル。

苦を楽に変える方法を考えること

苦を楽に変える視点を持つことが

日々の暮らしの中では

一番大切なことじゃないのだろうか。

苦を楽に変える視点と智慧を備えていないと

人は最終的に悪の道に陥りやすい。

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人間は色眼鏡で世界を見てしまう。

そう思い込む。

むしろ思い込みたい癖がある。

しかし物事は多面的であり人によって見え方は様々あるもの。

自分の常識は勝手な思い込みくらいに考えていたほうが、相手の気持ちを考えるにはちょうどいい。

例えば自分の場合、

こういうことをやっていると

苦行をしているように見られがちだけど

それは大きな勘違い。

入り口はたしかに苦行なのだが、

一度やれば

やった分だけ何かが返ってくると

わかってくるから、体感しているから

楽しみだからやっている。

実はただそれだけだったりする。

楽しみがなければ人間は続けられない。

それは紛れもない事実。

「苦楽」という言い方がされるように

苦と楽は陰陽のようにセットになっているもので

単一のものではない。

苦の中の楽

楽の中の苦

その関係性を捉えたときに

「苦しい」というのはその中の

「楽しみ」がまだ見つけられていない

だけなんだと思う。

言い換えれば「楽しみ方」だろうか。

世の中にはそれに対処できる

やり方や術というのが必ずあり、

それを学んだり創意工夫するのが

人間の生きるという使命の全うでもある。

「一生勉強」とはそういうことを意味する。

小手先や上辺だけの知識や技術ではなく、

生きぬける力、ものの見方、考え方を

学ぶことが必要だ。

そういう学びを自分の生活に活かすことで

新たな気づきや楽しみが見つかってくる。

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苦行によって今の苦しみから脱しようとするのは

悲劇のヒロイン思考であって、

そこに解決の糸口は見つからない。

(仮に見つかった時はすでに苦が楽に転換した時だ)

痛めつけることでハイにはなれるかもしれないが

それは対処療法でしかない。

それを意図的にやっているならまだしも

しらずしらずに、

無意識的にやってるケースが

意外とあるもんだよなぁと恐くなった。

ただ耐える、というのは

頑張っているようでいて実は

やるべきことを頑張れていない

可能性が潜んでいる。

やるべきことは

解決できる智慧を借りること

視点を変えること。

生きづらさを作っているのは

誰のせいでもなく自分。

自分を変えれば

周りは変わり

世界も変わる。