かつては人だった神々

伊弉諾や伊邪那美、素戔嗚など人格神として語り継がれている神様もいますが、

神様の中にはかつては人だった神様もいます。
例えば天神様で有名な菅原道真。

学問がずば抜けてでき、天皇側近の右大臣まで上り詰めたエリートの道真は周りから妬まれ流刑に処され太宰府に追いやられこの世を去りました。

その後、京の都では落雷で尋常ではない被害を被り「菅原道真の祟り」と恐れられ、天神様として祀られました。

いまでは学問の神様として現世御利益の対象になっていますが、もともとはとても怖い神様だったわけですね。

確実に人間として生存が確認できるところでいえば戦国武将も各地の神社で祀られていますね。
幕末になると私の尊敬する吉田松陰も世田谷及び萩の松陰神社で祀られています。
いまでこそ現世御利益にあやかろうと参拝されてますが、
その経緯をよく調べるととても強い想いを抱きながら無念の死を遂げている神様も多いです。

先にあげた道真はまさに祟り神ですしね。
お願いしたらそのぶんしっかり努力しないと怒られそうです。

吉田松陰なんて愛情厚いぶん、自分にも弟子たちにもとても厳しい方ですからね。

願いが成就したらお礼参りも忘れずに!!٩( ‘ω’ )و

「動かない」という選択もまた行動のひとつ

動かなければ何も始まらないが、
「動かないと不安で仕方ない病」はまたちょっと違う。  
臭いものにフタをする自分。
現実からの逃避。

 

そういう時こそ立ち止まって

「動かないという『行動』を選択する」
というのもまた立派な行動な気がする。
これが個人的には一番厳しく感じ

苦手な修行なんだと思う。
どちらかといえば動きたい派だから。
じっとしてるのは嫌い。
=======
「動かない」と何も起こらない。
それは違うと、数日前に気づいた。
「1日中道端にたたずむ岩と話しなさい」
仮にこういう禅行のような課題を与えられたとする。
ぱっと考えたとき

「1日何も起こらずムダに終わりそう」
そんなふうに考えてしまうけども

その岩を中心にストーリーを考えると
1日に色んなことが起きることが予想できる。
風が吹き抜け
ジリジリと太陽に焼き付けられ
猫が小便をかけてきて
何十人という人が通り過ぎる。
そんな岩とひたすら対話していれば、
当然色んな人と出会うかもしれないし、
変質者として通報され警察に職質されるかもしれないし
なぜかマダム受けのいい私の場合はマダムが「たくさんお食べなさい」と憐れんでくれてお弁当を差し入れでもらえるかもしれない。
自分が動かなくても

世界は回っているので
それを感じ取れさえすれば

受け入れさえすれば

溶け込めさえすれば

「縁」は発生するんだと思う。
動かない世界にしてしまっているのもまた

自分の観念なのだと思う。
===============
自分のダメさ弱さをを全てを認めて
受け入れてこそ初めて
他人の言葉も素直に受け入れられる。
相手の言葉に言葉で返して自分を主張したい時ってどこかに自分を「守ろう」とする自分が必ずいるわけで
そういう「守り」すら本当はいらない。
全てを受け止めるおおらかさを持った時に

世界はもっと動き出す。
自ずと動き出す。
そんなことを思い至った。
まだまだ修行が足りませんなぁ。