大寒⑤〜水の還元力
水と浄化作用で一番大事なことを忘れていた。
良い水には「還元力」がある。
酸化しにくくなる。
鉄を入れっぱにしても錆びない。
そんな効果がある。
地球に酸素はなくてはならないものだが、
その酸素は酸化作用を持つ。
酸化とは腐敗すること・朽ちていくこと
つまり穢れに相当する。
健康産業の言い方をすれば酸化とは
身体に活性酸素が増えることだ。
老化現象をもたらす。
生命は酸素なしでは生きられない。
しかしそれは同時に酸化をもたらす。
それを中和してバランスを戻してくれるのが
水の還元力だ。
ご神水などはその筆頭でいつまでも腐らない。
石を入れればピカピカになる。
とても力があり貴重なものだから
昔から大切に崇められてきた。
ミネラルウォーターも
還元力の高い水は人気だ。
人体の60%が水である以上、
還元力のある水を使うことは
かなり意味のあることだと思う。
穢れと病気
祓いと健康
これらの関係性と関わってくるもののひとつが
水の還元力だろう。
水は身体の穢れ=病気を祓い清め
心身を健康に戻す還元作用がある。
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数年前、
ネパールのNPOで活動している方から
面白い話を聞いた。
首都カトマンズとは違って
ヒマラヤの麓に近い地域では
綺麗な山の水が豊富なため、
水だけで洗濯しても汚れがよく落ちるらしい。
ヒマラヤの水は還元力が高いとのこと。
最近だと巷で「◯◯マグちゃん」など
Mgの還元力を用いて洗剤なしで
洗濯できるグッズもある。
数年ほど使ってるけど水に還元力があれば
洗剤なしである程度汚れが落ちるのは
まちがいない。
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山の水はミネラルたっぷりなので
還元力が強い。
山沿いの温泉や山小屋にいったら
ぜひ風呂場で水を浴びて欲しい。
山水を使っている場合が多いので
その山の水を肌で味わったほうが
身体も喜ぶ。
土地によって水の感触はちがう。
山のきれいな水を沢山浴びれば
お肌がピチピチになるのは
水の還元力を考えれば
間違いないのです。
大寒④〜「対照力」なぜ大寒は寒いのか
大寒から1週間の寒行というのは1年でたぶん最もきつい。
「今年は暖冬」と言われて実際に気温が高めでも
やはり大寒あたりは必ず冷え込むものである。
絶対的には例年より暖かいかもしれないが、
相対的にみれば毎年それなりに気温が下がる。
だから体感的にもなかなか寒い。
最も日照時間が少ないのは冬至だ。
冬至は確かに暗くて寒いが
それに比べて大寒のほうが寒いのは
一体なぜなのか?
そうなるのは陰の中に陽が起こってくるから。
陰が極まった状態では対照として働く陽の力が
ほとんど働いていないので動きが少ない。
陰そのもののパワーというのは
逆に感じづらい状態だ。
ここに陽の力が加わってくると
その力が陰の勢いも加速させる。
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放射冷却による路面凍結は
まさに陰中の陽が働いて起こる典型例だと思う。
昼間たくさん太陽によって熱せられたからこそ
その陽の力が夜に上へ立ち昇ることで
地表からの温度を急速に奪い
夜は極端に冷え込んでくる。
この現象は陰が極まった状態では起こらず、
陰の中に陽が芽吹いてこなければ
起こらない現象になる。
急速に冷却されて成長する霜柱も
陰中の陽を表している。
陽があるからこそ氷が上へ成長する。
陰が極まっていたら、
変化のない凍土のままだろう。
つまり大寒が寒いのは
春に向けて温かくなり始めているからであり
その対照力があるからこそ
より寒くなると言える。
対照力は食べ物で考えるとわかりやすい。
スイカに塩をつけるのも対照力。
お汁粉に塩昆布を添えるのも対照力。
カレーがあるからライスがより美味しいのも対照力。
これらの味わい方は全て「大寒」と同じ
道理といえる。
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対照力という観点で寒行を考えてみる。
5分も冷水に浸かって身体が冷えてくれば
いやでも自身の体内の温かさも感じるし、
生命そのものも感じる瞬間がある。
「オレやっぱり生きてんだな」と。
冷やすからこそ温かさを感じることができる。
滝の中にずっと身を置けば
そこに感じるのは自分の生命そのものでもある。
季節的にみても「陽の種」が育ち始める時期だ。
これから芽吹いてくる陽に対して
より勢いづけるために
陽の種にせっせと水冷たい水をかけ、
陽の成長を加速させる。
陰陽的にみれば寒行にはそんな意味も
あるように思う。
これらを総じて考えると
「美味い」が「対照力」ならば
美味さを追求して楽しむ「グルメ」も
「大寒」であると言える。
ということは…
「寒行」も、
「グルメ」なのかもしれない…
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苦しみ抜いた先に
一筋の光は見える。
苦しみが多いから
楽しみは際立つ。
対照力の働きを考慮して相対的に
物事を見れるようになれば
視点も変わってくる。
「苦しい辛い」
そんな愚痴しか出てこない自分自身を
対照力という物差しで測ってみると
いろいろ疑問がみえてくる。
果たしてこれは本当に苦しいのか?
何が原因なのか?
その苦しいという感覚は
何と比べてそう感じるのか?
その苦と対照となるものを得られた時に
本当に幸せになれるのか?
そこに真実がある。
「苦しい、辛い」と考えてばかりなのは
実は楽なことばかりに囲まれてるから、
苦しさが目立つだけなのかもしれない。
幸せ幸せと願ってはいるが、
その幸せは何と比べての「幸せ」なのか?
本当にそれが望むものなのか?
対照力を物差しにして自らを省みて
そんなふとした疑問も持てなければ
そのうちチコちゃんに叱られても
仕方ないのである、笑
大寒③〜水は中庸であり循環である
水が禊や清めに使われるのは
その性質にも理由がある。
水は中間の存在だ。
pH(ペーハー)は7になる。
1(酸性)〜14(アルカリ性)のちょうど中間の
性質を持つ。
祓うとはフラットな状態に戻すことだ。
性質的にフラットな水が祓いに使われるのは
この観点でも意味があることに気付く。
水は中庸な性質を持って、
私たちの過不足を戻す働きかけをしてくれる。
身体のペーハー調節としての「排尿」も
その媒体は水だ。
水によって身体はきれいに保たれている。
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水は形態も中間の存在だ。
固形↔︎液体↔︎気体
水の形態は温度によって自在に変化する。
氷点下になれば氷として固形化する。
沸点に達すれば蒸気となって空間を自由に
飛び回る。
常温に戻れば液体に戻る。
状況によって自在に変化できる性質は
「空」とも言える。
一つの状態に縛られず、状況にあわせて
自由自在に在り方をさだめられる。
理想的な心の持ち方、
理想的な自分の在り方だと思う。
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そしてこの形態変化によって
水は自然界を循環している。
海から空へ、
空から山へ、
山から川へ、
川から海へ、
その循環の中には
人間も含めて全ての生命が
組み込まれている。
つまり水は循環も意味している。
水という性質を考えてみると
水を浴びて禊ぐというのは
物質的・精神的に中庸に戻す、
自分は世界の循環の中にいる、
そういう無意識への働きかけでも
あるのかなと思います。
水は有り難い存在です。
古来から日本では禊が行われてきた。
最近メディアでよく見かけるのは、
宗像大社沖津宮の神職の海での禊だろうか。
古事記ではイザナミを追ったイザナギが
黄泉の国から戻ってきた場面で
「禊」が登場する。
筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で
禊ぎ祓えを行った。
その際に出てきた神様が
出てくるのが禊の祓い祝詞。
九柱の神、
ヤソマガツビノカミ
カムナオビノカミ
オオナオビノカミ
ソコツワダツミノミコト
ソコヅツオノミコト
ナカツワダツミノミコト
ナカヅツオノミコト
ウワツワダツミノミコト
ウワヅツオノミコト
禍(曲)ツヒノ神と
直ビノ神に続くのは
阿曇連の祖先神のワタツミノ三柱。
ツツオノ神三柱の住吉三神。
禊(身を削ぐ)という点でみると
底、中、上の三層、
三段階の祓いになってるのが興味深い。
禊の川が河口付近であれば川の水は海の塩水と水流が重なり合う。2つの水流とその境界を含めて三層構造なのかもしれない。
面白いことに身体も三層構造が基本になっている。
血管は外膜、中膜、内膜の三層構造を基本とする。
消化管などの中腔臓器は粘膜、筋層、漿膜の三層構造。
受精卵では外胚葉(皮膚や神経系)、中胚葉(筋肉、骨格、脈管)、内胚葉(口〜肛門)、この三層が分化して人体がつくられる。
東洋医学での病気の深さは
「表証」「裏証」そしてその間の
「半表半裏」の三層で考える。
病気とはまさに三層のどこで起きてるかが問題で、治療もどこに対してアプローチするかが重要になってくる。
この世界で見れば天・人・地。
天と地に挟まれて生命は活動している。
上と下、内と外、
そしてその間の三層構造。
三層構造は五行同様に
色々なことにあてはまる。
何事も表面だけのアプローチでは
効果は乏しく、
内側からも働きかけなければ
変化は難しい。
健康という身体的な面でも言えるし、
自分自身という内面的な点でも
言えるかもしれない。
組織やコミュニティ、
社会などマクロ的な面でも
同じことはあてはまる。
禊(三削ぎ)とはなかなか
奥が深そうです。
※こんな記事を昨夜考えていたら
今日は海に入る流れになってしまった。
流されませんように、笑
山岳信仰の里の行者&鍼灸師です。科学と信仰の統合を。