大寒④〜「対照力」なぜ大寒は寒いのか
大寒から1週間の寒行というのは1年でたぶん最もきつい。
「今年は暖冬」と言われて実際に気温が高めでも
やはり大寒あたりは必ず冷え込むものである。
絶対的には例年より暖かいかもしれないが、
相対的にみれば毎年それなりに気温が下がる。
だから体感的にもなかなか寒い。
最も日照時間が少ないのは冬至だ。
冬至は確かに暗くて寒いが
それに比べて大寒のほうが寒いのは
一体なぜなのか?
そうなるのは陰の中に陽が起こってくるから。
陰が極まった状態では対照として働く陽の力が
ほとんど働いていないので動きが少ない。
陰そのもののパワーというのは
逆に感じづらい状態だ。
ここに陽の力が加わってくると
その力が陰の勢いも加速させる。
======
放射冷却による路面凍結は
まさに陰中の陽が働いて起こる典型例だと思う。
昼間たくさん太陽によって熱せられたからこそ
その陽の力が夜に上へ立ち昇ることで
地表からの温度を急速に奪い
夜は極端に冷え込んでくる。
この現象は陰が極まった状態では起こらず、
陰の中に陽が芽吹いてこなければ
起こらない現象になる。
急速に冷却されて成長する霜柱も
陰中の陽を表している。
陽があるからこそ氷が上へ成長する。
陰が極まっていたら、
変化のない凍土のままだろう。
つまり大寒が寒いのは
春に向けて温かくなり始めているからであり
その対照力があるからこそ
より寒くなると言える。
対照力は食べ物で考えるとわかりやすい。
スイカに塩をつけるのも対照力。
お汁粉に塩昆布を添えるのも対照力。
カレーがあるからライスがより美味しいのも対照力。
これらの味わい方は全て「大寒」と同じ
道理といえる。
======
対照力という観点で寒行を考えてみる。
5分も冷水に浸かって身体が冷えてくれば
いやでも自身の体内の温かさも感じるし、
生命そのものも感じる瞬間がある。
「オレやっぱり生きてんだな」と。
冷やすからこそ温かさを感じることができる。
滝の中にずっと身を置けば
そこに感じるのは自分の生命そのものでもある。
季節的にみても「陽の種」が育ち始める時期だ。
これから芽吹いてくる陽に対して
より勢いづけるために
陽の種にせっせと水冷たい水をかけ、
陽の成長を加速させる。
陰陽的にみれば寒行にはそんな意味も
あるように思う。
これらを総じて考えると
「美味い」が「対照力」ならば
美味さを追求して楽しむ「グルメ」も
「大寒」であると言える。
ということは…
「寒行」も、
「グルメ」なのかもしれない…
=============
苦しみ抜いた先に
一筋の光は見える。
苦しみが多いから
楽しみは際立つ。
対照力の働きを考慮して相対的に
物事を見れるようになれば
視点も変わってくる。
「苦しい辛い」
そんな愚痴しか出てこない自分自身を
対照力という物差しで測ってみると
いろいろ疑問がみえてくる。
果たしてこれは本当に苦しいのか?
何が原因なのか?
その苦しいという感覚は
何と比べてそう感じるのか?
その苦と対照となるものを得られた時に
本当に幸せになれるのか?
そこに真実がある。
「苦しい、辛い」と考えてばかりなのは
実は楽なことばかりに囲まれてるから、
苦しさが目立つだけなのかもしれない。
幸せ幸せと願ってはいるが、
その幸せは何と比べての「幸せ」なのか?
本当にそれが望むものなのか?
対照力を物差しにして自らを省みて
そんなふとした疑問も持てなければ
そのうちチコちゃんに叱られても
仕方ないのである、笑