【童子×マブダチ×エネルギー】
だいぶ日が経ってしまったけど、2月の伊勢帰還後にクラスメイトの新規サロンのお祓い。
このご時世、心身の悩みを抱える人たちが集まれる場所にしたいという想いに共感してお祓いさせていただきました。
同席された方のお子さんが初対面ながらマブダチかのようにずいぶん馴れ馴れしくベタベタくっついてきた。
よくあることだけど
この日は妙に馴れ馴れしかった。
座敷童子のようでもあるし、
眷属の童子だったのかもしれない。
「なにしに来たのー?」
「オハライにきたの」
「塩舐めていいー?」
「どうぞー」
「これなーに?」
「これはシャクジョウだよ」
「あたしも鳴らしていい?」
「はいどうぞ」
(三方を見て)
「あたしこれ知ってるー」
「三方しってるの?すごいね」
「マシュマロ乗ってた」
「マシュマロ?それお餅でしょ?」
と終始ずっと童子様と
やりとりが続きました。
小さい子供は神様に呼応するので
ある種の神様バロメーターとして
いつも観察している。
祓い式の最中に急に
トイレのなかをバシャバシャ
スマホで撮り出したらしい。
トイレの神様でも降りてきたのか、
なんか篭ってた邪気が出ていったのか。
何が写ってるのか気になるところです、笑
祓い給へ清め給へ。
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「12〜3月に朝5時から朝活していたが、それがストレスだったのかアゴの吹き出物が治らない。」
という腎虚、先天の精が不足しがちな女性からの相談に対するわたしの一考察です。
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アゴの吹き出物ですが、ステロイドを使用した箇所は、そこが薬のダメージで毒の排出口になりやすいようなのでそのためでしょう。
ココナッツオイル・ハチミツ・コラーゲンを混ぜたもので組織の回復をはかってみて下さい。
アロエも炎症の解消としては問題はないですが組織の入れ替えを考えると脂質とタンパク質なので上記は含まれていたほうが良いと思います。
また冬季間の朝5時からのヨガ(?)ですが、古典医学にも昔の人は活動時間は太陽にあわせてるので、冬は起きるのが遅いとされてます。
太陽光にミトコンドリア活性効果があることからも日の出とともに動くことは理にかなっています。
先天の精が不足してる場合も、太陽=火=心は腎と補完関係にあると考えられるので、日光浴は有効です。
冬季間の早朝というのは絶対量の少ない人にとっては、エネルギー的には効率が悪く、日照時間の少ない冬の朝に優先すべきは太陽を浴びることかなと思います。
さらにいえば、エネルギーワーク的なものは温度差やレベルのちがう色んな人のものが混ざるので、よほど扱いに習熟した人でないと全員のエネルギーをマネジメントするのは本来は至難の業です。感覚が鋭いとそういう綻びの影響は受けやすくなるので、そこら辺も影響したのではと考察します。
ご参考まで。
【東洋医学×多様性×オーダーメイド】
嫁入り前の除けの御鏡。
御鏡や数珠やお札なども
その人に必要な神様の
御霊を入れるので
見かけは同じでも
ひとりひとり中身が全く違う。
個別にカスタマイズされる。
ひとりひとりにそれぞれ
身体的、思考的な特性があり、
先祖や霊的な特性があり、
それによって必要なものは変わってくる。
これは医療も同様だ。
東洋医学や量子医学では
必要な治療はひとりひとりの
“個”にあわせる形となる。
多様性に応えるには
ひとりひとりにあわせた
オーダーメイドが理想的だ。
現代医学のように平均化されたやり方は
ある一定数にはある程度効果は見られるが、
確率論的に必ずそこから漏れる人が発生する。
その際にどうするか思案していくと
結局オーダーメイドになってしまう。
医の基となる食事もまた同様です。
その人に必要なものは厳密にみていくと
かなり異なってくる。
時代遅れのカロリー計算なんて
平均化した大雑把の極みだろう。
あらゆるノウハウ伝達において
確かな再現性を求めるならば、
本来はその人の特性を見極めて
個々にあわせた指導が
必要になってくる。
そう考えるこの頃です。
【修験×自然×世界×現実×学問】
修験道は自然とひとつになって
世界=神を感じる信仰だ。
向き合えば向き合うほど
混ざれば混ざるほど
そこに人間のエゴや思惑は
挟まれる余地はなくなっていく。
世界は目の前にただ在るのみ。
偏見も差別も
そして容赦もない。
自然と向き合うことは
純粋な科学であり
純粋な医学であり
純粋な量子物理学でもあり
純粋な学問へ自然とつながっていく。
一方で宗教というのは時として
為政者や支配者側の思惑が働く。
昔も今もそういう要素の方が強い。
そういう大衆のための道である信仰と
為政者側のための宗教はよく観察すると
巧妙に入り混じっている部分があるので
注意しなければならない。
今回のような有事の際において
自分の振る舞いを考えるにあたって
一体だれのための信仰なのか?
というのを毎日問いつづけていた。
いま現代において望ましい形は
“大衆のため”だろう。
木曽御嶽山における大衆信仰の
起こりと流れからわかるのは
江戸中期に神事(神懸)は権力者から
大衆へと広がる動きがあったことだ。
(逆にこの頃に為政者側はすでに神仏分離を始めている地域もあった点はかなり興味深い)
これは全国的に起こった。
いわば宗教のデモクラシーだ。
その中心は修験道という領域を
中心に起こっている。
全国に沢山の講が起こった。
私はここ数年、
修験廃止令というものは
明治の神仏分離令を
より徹底するために
行われたと考えていたが
それだけではないなと今回気付いた。
珍型コロナの虚構や煽動を踏まえて
いまの世界を俯瞰すると、
明治になぜ修験道が廃止されたのか
その本当の理由がいまなら
よくわかる気がする。
純粋に世界と向き合われると、
嘘で取り繕いたい側からすると
とても宜しくない存在なのですよね。
当時もそういう先人が
沢山いたのだろうと。
あの時代も世界と対峙するために
取り繕わなければならなかった。
そこに対して絶対的な自然界を柱とする修験道は
もっともニュートラルな存在であり
なんとも邪魔な存在になりうる。
取り繕ったその後の末路は
いま終焉を迎えようとしている
戦後時代のスタートと入れ替えで終わった。
こういう流れを振り返ると
修験道の立ち位置や在り方を
改めて考えさせられる時間でもあった。
色眼鏡のない世界、
固定観念のない世界、
しがらみのない世界、
嘘偽りのない世界、
そしてありのままの世界。
それが自然であり宇宙であり
いつも私たちの目の前にありながら
現代人がすぐに見失う世界なのです。
山岳信仰の里の行者&鍼灸師です。科学と信仰の統合を。