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【”生きる意味”など本当はない】

【”生きる意味”など本当はない】

「生きる意味がわからないし、
もうどうしていいのかわからない…」

という悩みが昨日の夕方に
メールでいきなりぶつけられたので
こう答えました。

「極論を言ってしまえば生命に本来は生きる意味などありません。
動物が意味を見出した生きてると思いますか?
草木が意味を見出して生きてると思いますか?
それでも必死に生き抜いてるのはなぜでしょうか?そこを彼らと対話してよく考えてみて下さい。」

結果、目覚めたそうです👏

生きる意味を探し求める時点で
“お陰様の気持ち”は失われています。

生きていれば意味を見つけたくなりますが、
そこにも支配する側の誘導が絡んでくることは
留意すべき点でしょう。

生きる意味が与えられると
空っぽの心を埋めるために
喜んで悪魔にも従います。

残念ながら一部の宗教には
そういう側面もありますが、
本来の信仰はそんな安っぽいものでは
ありません。

近代の日本の習慣ではわざわざ個を祝福する
習慣が根付いていますが、

最近はあれこそが
各人の自己肯定感をだだ下げする
元凶ではないかとさえ考えます。

だって実際にそうなってますから。

神に祝福されているといいながら
それを感じとれていません。

祝福の差別化が生まれ
自己肯定感が明らかに下がっている。

しかし自然の中の一生命としてみれば
平等に祝福されてることに
本来は気付けるはずです。

神の祝福をいつも感じられれば
他者への承認欲求もなくなります。

それでは困るから権力者は
自然から切り離そうとします。

自然信仰では困るのです。

本来のお陰様を忘れて
意味を求めてばかりでは
出口も見つかりません。

お陰様を感じるから
楽しみや幸せなどの
意味を見出せます。

自然に生きる一生命としての自分を忘れると

途端に道も光も失います。 

怖いものです。

【童子×マブダチ×エネルギー】

【童子×マブダチ×エネルギー】

だいぶ日が経ってしまったけど、2月の伊勢帰還後にクラスメイトの新規サロンのお祓い。

このご時世、心身の悩みを抱える人たちが集まれる場所にしたいという想いに共感してお祓いさせていただきました。

同席された方のお子さんが初対面ながらマブダチかのようにずいぶん馴れ馴れしくベタベタくっついてきた。

よくあることだけど
この日は妙に馴れ馴れしかった。

座敷童子のようでもあるし、
眷属の童子だったのかもしれない。

「なにしに来たのー?」
「オハライにきたの」

「塩舐めていいー?」
「どうぞー」

「これなーに?」
「これはシャクジョウだよ」

「あたしも鳴らしていい?」
「はいどうぞ」

(三方を見て)
「あたしこれ知ってるー」
「三方しってるの?すごいね」
「マシュマロ乗ってた」
「マシュマロ?それお餅でしょ?」

と終始ずっと童子様と
やりとりが続きました。

小さい子供は神様に呼応するので
ある種の神様バロメーターとして
いつも観察している。

祓い式の最中に急に
トイレのなかをバシャバシャ
スマホで撮り出したらしい。

トイレの神様でも降りてきたのか、
なんか篭ってた邪気が出ていったのか。

何が写ってるのか気になるところです、笑

祓い給へ清め給へ。

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【”誰かのため”は逃げ、責任転嫁】

健康にも関わる重要な話として

“誰かのため”は病気になる危険な思想である、

ということを挙げておきます。

お国のため→戦争

社会のため→共産主義

子供のため→毒親

あなたのため→自己否定してる自分の正当化

自分のために生きることが

責任を転嫁しない健全な生き方であり、

自分のためだからこそ

相手も快く施しやお節介を享受できる。

“誰かのため”は偽善者のいい訳でしかない。

やりたいからやるのだ

自分の柱があるから

そこを中心に世界を作れる

自分の柱があるから

誰かを助けられる。

そこをはきちがえてはいけない。

“自分のために”がない

“誰かのために”は

脆くすぐ崩れる。

つまり相手にも迷惑をかける。

“お互い様”があるようでない。

自分主体でなければ

必ず責任をどこかで投げ出す。

裏を返せば”逃げ”があるから

誰かのためと理由をつける。

そうではない。

やりたいからやるのだ。

自分を生きよ。

これはこの同調圧力の蔓延する

いまの状況下においてもいま一度、

自分に投げかけるべき

問いではないでしゃうか。

【果報はただ寝ててもやってこない】

【果報はただ寝ててもやってこない】

万事抜かりなく

やるべきことを

全てやったうえで(人事を尽くして)

はじめて委ねられる(天命を待つ)

“果報は寝てまて”とは

そういうことを指している。

穴だらけでただ自己満みたいに

やった気になってるだけじゃ

いくら寝て待っても

果報なんて届くわけがないぞ。

バカなのか?

そんなに神様は甘くない。

果報が届かないのは

やり方がまちがっているから。

本質がズレているから。

「やれることはやった」

その基準値と質をあげる努力をしないと

死ぬまで果報は届きません。