松下幸之助
「真剣に生きる人ほど無理はしない」
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さきほどこんなものが飛び込んできた。
無理して頑張るというのは
漠然とした不安を打ち消したいゆえですが、
それでは自分と向き合っているとは
結局のところ言えないのです。
弱い自分や
汚い自分と
腹を据えて向き合う。
それが”真剣に生きる”の意味するところ。
これをつきつめていけば
過度な依存はなくなり、
過剰な無理はおそらく生じなくなる。
依存の根幹は共同幻想である”通貨”であり
そこに付随する”価値”という概念そのもの。
SDGsとか言っちゃってますが、
権力者が搾取しつづけ
庶民という奴隷を頑張り続けさせた結果が
今の世界であり、
さらに頑張らせようとしていることに
なぜ気付かないのか不思議です。
グローバル化、
全体統一が全てを歪ませており、
本当に貧しい国や人々のことを考えるのなら、
いまのこのシステムを脱却するために
どういう生き方ができるかを模索することであり
お偉いさんのアジェンダに淡い夢と理想を
みることではございません。
「なぜこうなったのか?」
を深く考察しないと本当の目的地は
はっきりと見えません。
話はそれましたが、
真剣を携えていればそれこそ
無理はできません。
無理すればそこで終わりなので。
そこでかんたんに終わってしまっては
自分の道を通せないのでやはり
無理はできません。
生き抜かないといけないので。
“無理をしているうちは真剣ではない”
なんとも深い問いかけです。
そしてとても厳しい言葉です。
宗教者は人を導く立場なのだから
誰よりもリアリストでなければならない
とコロナ災禍で日に日に強く感じている。
そして自然と向き合う修験者はその中でも
誰よりもリアリティを持たなければ
ふだん修行してる意味がないと思う。
これは私が医療というものに
踏み込んでいるからかもしれないが
昔の修験者は医術の領域も
役割として担っていた。
生命=自然=神の世界=宇宙
われわれが生かして頂いている
現実世界をありのまま受け入れることは
妄想にとられている己に気付き
その気付きは”知”を授けてくれる。
そしてその知は
人が生み出す妖や
まやかしの世界を退く
不滅の力となる。
人事を尽くした先に初めて
天に、神にお任せできるのだから、
可能な限りのリアリティを尽くさねば
届く祈りも届かないだろう。
人事を尽くさない神頼みは
それこそ丸投げの無責任な
他力本願でしかない。
信仰と向きあう
それは今生きているこの世界と
向きあうことであり、
清濁ふくめた現実と向き合う
そういうことではないのだろうか?
最近「苦しい」「辛い」とばかり呟きながら祈祷してる方のSNSが気になっていたら、
「苦しみ」というのが周りと色々リンクしてきたので苦しみについて考えてみた。
「苦に甘んじる症候群」が存在する。
かつては自分もそうだったなと思いつつ。。。
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だいぶ前に師に
「苦行をすれば修行があがると思うのは大きな間違い」
と言われたことを思い出した。
修行は厳しいことも沢山あるが
苦しさを求めるものではない。
それはお釈迦様がすでに実践して
無意味だと答えを出している。
その意味を考えてみた。
苦は自ら求めるべきでないものだとして、
では避けられない境遇の場合はどうなのか?
仕方ないのだろうか?
回避するための手段を
全て試してみたのだろうか?
根本的な原因を見つけられているのだろうか?
苦に耐えるというのは
一見「やった感」が出てくる。
耐えているんだから自分を褒められる。
「耐える」というのは悲劇のヒロイン思考に陥っていないかに注意したほうがいい。
そしてその耐えている状況を冷静にみたときに
「思考の放棄」をしていないか?
ということに着目したい。
苦行はやった感、満足感が得られるから
その先を考えなくなりがちだ。
痛めつければアドレナリンもガンガンでるから
生理的にみても尚更そういう傾向に陥りやすい。
人間の脳は楽なほうにいきたがる。
思考しやすいほうに流される。
そういったことを踏まえて考えたときに
苦行というのはあまり建設的ではないことに
気付く。
悟りであったり中庸であったり
エネルギーが空の状態であったり
理想がそういうところである以上、
苦行で苦が続いているうちは
それは目的を達成されていないことになる。
苦から解放されなければ
成就とはいえない。
しかし困ったことに「やった感」だけは
得られてしまう。
お釈迦様が苦行をやめたのは
結局そこのように思う。
悟れないのに「オレはやったぜ感」「満足感」を得てしまえば道を見失う。
そして仮に苦行の先で答えが何も見つからなかった場合、いったい誰が幸せになれるのだろうか?
という問題もある。
むしろ周りを不幸にする。
自分が幸せでなければ
他の誰をも幸せにはできない。
犠牲の上に成り立つ幸せも世の中にはあるかもしれないが、犠牲になった人はその中の喜びや幸せを知っているから犠牲になったのであって、寧ろ犠牲とは思っていないだろう。
もし本人が犠牲になったと感じていたら、
それがわかってしまった時点で
結局相手も十字架を背負うので
幸せになることは難しい。
自分の中に幸せがなければ
誰も幸せにはできない。
苦行の成れの果ては
不幸のデススパイラル。
苦を楽に変える方法を考えること
苦を楽に変える視点を持つことが
日々の暮らしの中では
一番大切なことじゃないのだろうか。
苦を楽に変える視点と智慧を備えていないと
人は最終的に悪の道に陥りやすい。
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人間は色眼鏡で世界を見てしまう。
そう思い込む。
むしろ思い込みたい癖がある。
しかし物事は多面的であり人によって見え方は様々あるもの。
自分の常識は勝手な思い込みくらいに考えていたほうが、相手の気持ちを考えるにはちょうどいい。
例えば自分の場合、
こういうことをやっていると
苦行をしているように見られがちだけど
それは大きな勘違い。
入り口はたしかに苦行なのだが、
一度やれば
やった分だけ何かが返ってくると
わかってくるから、体感しているから
楽しみだからやっている。
実はただそれだけだったりする。
楽しみがなければ人間は続けられない。
それは紛れもない事実。
「苦楽」という言い方がされるように
苦と楽は陰陽のようにセットになっているもので
単一のものではない。
苦の中の楽
楽の中の苦
その関係性を捉えたときに
「苦しい」というのはその中の
「楽しみ」がまだ見つけられていない
だけなんだと思う。
言い換えれば「楽しみ方」だろうか。
世の中にはそれに対処できる
やり方や術というのが必ずあり、
それを学んだり創意工夫するのが
人間の生きるという使命の全うでもある。
「一生勉強」とはそういうことを意味する。
小手先や上辺だけの知識や技術ではなく、
生きぬける力、ものの見方、考え方を
学ぶことが必要だ。
そういう学びを自分の生活に活かすことで
新たな気づきや楽しみが見つかってくる。
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苦行によって今の苦しみから脱しようとするのは
悲劇のヒロイン思考であって、
そこに解決の糸口は見つからない。
(仮に見つかった時はすでに苦が楽に転換した時だ)
痛めつけることでハイにはなれるかもしれないが
それは対処療法でしかない。
それを意図的にやっているならまだしも
しらずしらずに、
無意識的にやってるケースが
意外とあるもんだよなぁと恐くなった。
ただ耐える、というのは
頑張っているようでいて実は
やるべきことを頑張れていない
可能性が潜んでいる。
やるべきことは
解決できる智慧を借りること
視点を変えること。
生きづらさを作っているのは
誰のせいでもなく自分。
自分を変えれば
周りは変わり
世界も変わる。
スタート 11:30
山頂12:15
もみじ台で休憩
下山 13:20
明日から一週間福島巡業なので迷ったが、山修行前の調整が必要と思い遅めの今季3回目地下足袋登山。夏に高尾山のぼるとかありえないと思っていたけど、上に行けば気持ち涼しい感じもした。こんな暑いのに相変わらず山頂は人が多い。。。夏だからこそのもみじ台ちゃやでのなめこ汁。百日潔斎でネギがダメだったのを忘れていて、避けながらたべる。
もみじ台の藪道にはまだ紫陽花が咲いていた。
登る前はいつもふもとの飯綱大権現様にご挨拶していくが、1ヶ月空いてしまった身体だけど、お参りするとスッと身体に山の気が入ってすぐいける状態に身体が変わってしまうから不思議です。
再来週は金峰山だ。
山岳信仰の里の行者&鍼灸師です。科学と信仰の統合を。