被災地をとりまく状況に思うこと

熊本をはじめとした九州での震災が起こってから、SNSを眺めていて

「荒れてるなー」

「言ってること一貫してしないなー」

「明らかに動揺してるよなー」

「震災に揺さぶられてるよなー」

と傍観しています。

現在の自分の状況ではできることが限られてくるのもあるのですが、

震災の規模感をトータルで考えてみるに

もうちょっと冷静になるべきじゃないかなと。別に中枢機能が麻痺してるわけではありませんからね。東日本大震災とはちょっとちがうと思うのですよ。
確かに被害はたいへんですし、大変な生活をしいられてる方々には早く日常がもどることを祈るばかりなのですが、当事者じゃない人たちの反応に違和感を感じてます。

被災者のためというより、

自分の中の枯渇した部分を潤すために動いてるように見えてしまうのです。

実際冷静に考えてみて、思い当たる方も結構いらっしゃるんじゃないでしょうか。
私自身もそういう面もあったので。

以下、facebookに投稿した記事です。

色々考え方はあると思いますけど、過剰反応し過ぎな気もしてます、、、

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何かがうまくいっていない時は必ずどこかに見て見ぬふりをしている

臭いものに蓋をしている部分がある。
自分の身の回りがきれいに循環していない。
そういう状態で

「熊本の人たちを助けたい」

と足を突っ込んでも

はたから見てると支離滅裂な言動にしか見えない
人を助けたい

支え合いたい
とても大切なことですが、
こういう緊急時に湧いてくる感情の根底は

実際にどこにあるのか。
純粋な気持ちなのか

免罪符なのか

自分の滞りに対する逃げ道なのか
被災地の感情の渦に自分から飛び込んで

どっぷり浸かってしまうのは

「寄り添い」とは違う気がする。

「同情」でもない気がする。
3.11から何を学んだのか。
この数日を眺めてると

人間ってなかなか変われないものだなと

改めて気づかされています。
一番問わなきゃいけないのは

自分の心の持ち方

気持ちの整理の仕方
そこじゃないかなって気がしてます。
不動心。

確固たる自分。
そこができないと

「支え」にはなれない。
支えてるつもりで結局支えられてる。
「人」という字は

支えあってできているので

それはそれでいいとは思うのですが。
気持ちが落ち着いてなければ

本当の意味での被災地への気遣いとか

できてない気もするんですよね。
当事者じゃないのに災害を受けて

グラグラと自分が揺らいでるのは

いかがなものかと。
物資云々よりそれが一番

迷惑な話だと思います。
外野からはなんとでも言えますから。
#循環

#熊本