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小手姫神社祭典〜その②

社務所で直会が始まり、おじいちゃんの語りが再開された。

昭和29年、仙台のとある霊能者が御神託により出羽三山の宮司を月舘へ連れてこられ、いまの奥の院の場所で「きちんとお祀りしなさい」と言われたのが小手姫神社と出羽三山のおつきあいの始まり。

(ちなみにこの時、「今後日本で大きな災害が二度起こる」という御神託もあり、そのひとつが3.11だったんだろうと言われているとのこと)

出羽三山講中の世話人をしていたお父様を持ちながら、当時は全く神様なんて信じていなかったというおじいちゃん。

ところがその御神託を受け「お前がやりなさい」と26歳の時に小手姫様の御堂を綺麗に掃除する”小手姫様お掃除隊長”を引き受けることに。

全く手入れのされていなかった御堂の掃除を7人で三日間かけて行った。

そして最終日の三日目、掃除が終わり御堂の前で皆で酒を飲んでいると、姿は見えないけど誰かが御堂の参道をなんども通り過ぎる感じがしたという。その場にいた皆がそう感じたらしい。

月舘には小手姫様の伝説が言い伝えのみで残っている。残念ながら物的痕跡は残っていない。小手姫様が蜂子皇子を追ってこの地へ降り立ち養蚕を始め、機織りを始め、、、結局病でこの地に亡くなるまでの間、先発隊が派遣されており、その最北端の終点地が米沢だったとされているとか。

ところが米沢ではそんな伝説は一切残っていない。

おじいちゃんも実際に米沢へ赴き、米織の関係者を訪ねたりもしたらしいが痕跡は見つからなかったらしい。

米沢で育った私自身そんな話は一度も聞いたことがなかった。

ただ小手姫様の存在を知った時、その時代と地理関係から米織は小手姫様と関係があるのではないか?という考えはまっさきに自然と浮かんできた。

「わたしはね、小手姫様を若い世代に繋げなきゃいけないんだ。今日は米沢から来たあんたに繋がった。有難う。」

小手姫伝説に携わって来た長老は御歳92歳。

帰り際までずっと小手姫様のことばかり口にしていて、周りが「帰るの?杖は?どごさ置いだの?」と心配して何度も尋ねているのに、「わたしはね次に繋がればいいんだ。宜しく頼んだよ。あとはみんなで勝手にやってくれ」と言い残し去っていった。

おじいちゃんのあとを引き継いで世話人をしてるSさんは

「あの人は小手姫様がくっつくと周りが聞こえなくなるんだよ」と苦笑いしながら面白いことを言った。

たしかにこのおじいちゃんは小手姫様に動かされている。

Sさんは岩手の立山とのご縁からいまの宮司さんが着任する経緯を話して下さった。

こじんまりとした月舘という集落、そこで今尚厚く信仰されている小手姫様を知り感動を覚えました。

蜂子様とお会いする前の小手姫様とのご縁と思っていたけど、どうも小手姫様とつながるための出羽三山だったような気がしてならない。

そういえば震災後、初めてガイガーカウンターを下げて飯舘を抜ける時、道に迷ってたどり着いたのも月舘だった。

「月」というその響きもあり、月舘いいところだなーと思った記憶がいまになって蘇ってきました🌙

小手姫神社祭典〜その①

4月8日(日)は月舘の小手姫神社の祭典へ初参加。

昨年の出羽三山秋の峰へ参加するちょうど1ヶ月前、南相馬から福島へ向かう途中ナビで普段と違うルートを通っていたらたまたま目に止まりこの神社の存在を知った。

「蜂子様に会いにいく」というテーマが目前に迫っていた中、その母君の祀られる神社に辿り着いたのはなんとも奇遇。

宮司さんに「毎年、出羽三山の宮司と山伏に協力してもらい祭りをやってる」と教えて頂き、初参加。

奥の院にて小手姫神社の宮司さんと山伏2名が本殿へ入ると祭典スタート。

先ほどまで気持ちよく晴れていたはずなのに祭典が始まった途端、少し柔らかいヒョウがバラバラと降り出してきて、野ざらしの参列者は皆少し戸惑う。

開始時間が近づくにつれてどんどん空気が冷えてきたので、祭典で何か起こりそうだなと思っていたら案の定だった。

降ったり止んだりをしばらく繰り返し、奉納の棒術で「次、龍の型」とアナウンスが入るとそらがぱっと晴れて太陽がキラリとお出まし。

しばらくするとまたヒョウが降ってまた止んで、、、

祭典中に目まぐるしく変わる天気を、宮司さんは締めの挨拶で「一年分の四季を味わうような」と表現された。

昨年峰中で体験した出羽三山のくるくると変わる天気にとても似ている感じがした。

さすが出羽三山。

そんな祭典だった。

何はともあれ無事に祭典が終わり席を立とうとすると、ひとりのおじいちゃんにいきなり声を掛けられる。

「あんたどこから来たんだい?去年も来てた郡山の人かい?」

「米沢からです」

「米沢!?あそこも織物があるだろ?米沢は小手姫様の先発隊が養蚕を伝えてなぁ、、、」

これはなかなか話が終わらないパターンだと直感した(笑)

しかしこのおじいちゃんが月舘の廃れていた小手姫伝説復活の中心人物だということが、この後の直会で判明する。

そして山奥の集落にひっそりと佇む小手姫様が月舘で厚く信仰されていると知ることになったのでした。

出羽三山供養塔〜七国峠・大日様のお山を歩く

昨年に引き続き高尾山で法螺貝を練習しようと横浜線で向かっている道中。

相原駅で停車中に向こうに見える小高い山を眺めていたら、「ん?あの山何かありそうだな」とピーンと来てGoogle マップを開く。

学生の頃から使ってる駅なので何十回と通過してるはずだけど、昨日はなぜか何かありそうな気がした。

そしたら出羽三山供養塔と書いてあるではないですか。そしてその隣に大日像と書いてある。どうやら昔信仰されてたお山らしい。

これは行ってみるしかない!!と思い、高尾山で用を済ませてから相原に戻り探索開始。

相原駅から北へ向かい、造形大近くの峠道の入り口から入ってみました。

比較的整備されている道ですが、雨降るとぬかるんで大変そうです。

途中何組か親子連れとすれ違ったので、地元の方はハイキングや散歩によく使うようです。

30分ほどひたすら歩くとありました、供養塔が。Y字路の分かれ目の木の前にどどんと。なんでこの位置にこの向きなのかが謎ですが、、、

刻まれた文字が薄くてほとんど読めないのですが、側面には「天保十年」とあるので天保の大飢饉から三年後に建てられたものらしい。

下のほうには「村役人」と書いてあるので、当時の役職者の名前が。

湯殿山が真ん中に置かれている。

現在は三山の配置が異なりますが、かつては湯殿山が大日如来をあらわすとされ真ん中に配置されていた時代もありました。

これを見てすぐ近くの大日如来像まで行ってみようと思い、一度この場をあとにする。

15分ほど歩くと大日如来像の場所へ到着。ちょうど日が差す広場のようになっていて大日に相応しい場所。ベンチもあっておじいさんが日向ぼっこしていました。

ここの大日様、廃れた里山の神仏はボロボロだと相場が決まっているものですが、とてもきれいに管理されていてちょっと驚きでした。

横の注釈には明治時代の一村一宮の制度でほかの神社に移動させられたけど、疫病が流行りだし、若い衆が心配してもとのこの場所に戻したら次第に疫病が治っていたという、比較的最近の逸話が書かれている。記憶に新しい大日様だから未だに地元の方々に大切にされているんですね。なんかだかとても感激。

般若心経と光明真言をあげ、法螺貝を奏上。

再び出羽三山供養塔へ戻り、こちらでも般若心経と法螺貝を奏上。供養塔と書いてあるからその選択だったのだけど、あとから調べてみるとどうも供養塔というのは遥拝所を指すらしい。三語拝詞でよかったかなとあとで後悔。また来る機会があったらその時は、、、。

日本三大修験といわれ全国で信仰されていた出羽三山なのでこんなところに供養塔があっても不思議はないのですが、自分がかつてお世話になっていた地域に出羽三山信仰者がいたと思うとなにか感慨深いものはあります。

ともあれ無事に出羽三山供養塔の探索は終了。

学生時代から馴染みのある地域にこんな大日様があるとはつゆ知らず、とてもよい勉強になりました。

感謝。

狛犬が現れた!!

詳しいことは書けないが山伏修行・秋の峰入りでは毎晩皆で拝んでいた。

あれだけ大勢で祈ることは初めてだったので個人的にはとても面白かったのです。

峰中の修行者は本当に色んな人がいます。だから良いものも悪いものもごった返し、笑

拝んでいると色んなものが自分の頭の中に入ってくる。

修行してんのになんでこんな卑猥なこと考えてるんだ?しょうがないなぁ、、、

そんなイメージも入ってきました、苦笑

一番印象的だったのは狛犬が後ろから僕をふわっと抱き抱えてくれたこと。

はっと気づくと装束きてる僕の後ろにでっかい狛犬が座りながらこっちを見てる。

装束の後ろに描いてある狛犬と似ている。 続きを読む 狛犬が現れた!!