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裁判傍聴で感じたこと

それで、全然関係ない話なのですが、裁判傍聴で感じたことがひとつ。裁判開始前、自分はどちらが原告側か被告側かわからなかったんですね。でも見た感じでわかってしまいました。
被告弁護団からはなんか何ともいえないしんどそうなオーラを感じまして。
一方の原告側の弁護団は高潔なオーラを発しておりまして。そりゃぁそうなりますよね。
弁護士って大変な仕事だなぁと痛感したのでした。

福島原発裁判の傍聴

先週の水曜日に、いわきから避難しているママさんのご紹介で、霞ヶ関の東京地裁での福島原発の東京訴訟の裁判傍聴に参加してきました。

なにげに初めて。

「段々傍聴者も減っているので、来てくれるだけでもありがたいです」
と言われ、何もできないけど応援の意味になるのであればと思い一緒に参加させていただいたのですが、結論からいうととても勉強になりました。

いままで難しそうなイメージで避けていた気持ちもあったのですが、訴訟の意義を考えると時間の許す限り傍聴に参加するべきだなぁと考えが改まりました。

福島避難者の方々の応援にもつながりますので、ご興味ある方はぜひ。
まだ色々と支援できることはありますよ。

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<レポート内容(一部)>================================

2015年1月28日(水) 
■福島原発被害東京訴訟・第9回

約20分程度。傍聴者は50人はいた。最近では珍しく多かったらしい。
冒頭、東電側の弁護団の姿勢を強く非難。
そこから主に9人目となるいわきから避難している方の意見陳述。子供の環境を考えいわきへ引っ越したが事故のせいで避難を余儀なくされた。当時介護施設でリハビリ中だった母は避難先でストレスのせいか暴力的になり、やむなく八王子の施設へ預けた。そこで転倒して背骨を骨折し元気がなくなった。昨年亡くなったが、本来であれば100歳くらいまで生きていたと思うので残念でならない。
その後、原告側弁護士より医師の論文やチェルノブイリ事故の事例を挙げて、政府・東電の管理する立場としての認識の甘さを指摘。

■報告会
弁護団より裁判の進捗報告

進捗状況
裁判は次のステップへ、具体的な被害を示し被害立証をおこなう。被害立証の尋問によって裁判官の心が動かされる可能性があるので、これからがメインイベント。原告側に被害立証の協力を依頼。

今回のポイント
低線量被曝のリスク、ヨウ素による甲状腺被曝のリスク、LSS好中球の現象→免疫力の低下、1950年代すでにアメリカの医師がレントゲン撮影での被曝のリスクを指摘している事例を引き合いに出した。
放射能の健康への被害は
・確率的・晩発的・非特異的である

裁判の目的
・原告の救済
・裁判を通じて原発に関する施策を作らせる、という意義もある

今後の裁判予定
3/25(水) AM10:00~
5/13(水) AM10:00~
7/15(水) AM10:00~

9/18(水) AM10:00~

祈りに質ってあるのだろうか

img_2日本人にとって祈りは基本の一つだと思います。
そうやって難を逃れてきた歴史があるから。

資本主義システムなアメリカにはあまり通用しない気がするが、信仰のある国には或いは。。。

命は平等です。
助かるべき命というものはないし、助からないべき命というものもない。
皆、平等に尊いもの。
どんな偉業を成し得ているとしてもそれは変わらないでしょう。
だから大切にしなきゃいけない。

無関心は罪ですが、しかし囚われすぎるのもよろしくない。
昔からの教え。
執着は時には身を滅ぼす。
たぶん執着した祈りは純粋な祈りとして届かない。
そんなことをふと思うと、やっぱり感謝が大前提、そこにいきつくのかな。

自分の命も大切だし、家族や周りの命も大切だし、命は皆平等なんです。
そういう前提を踏まえていないときちんと届かないんじゃないかなと、ふと思ったのでした。
まずは自分の心をしっかり持っていないと、届くはずの祈りも届きません。

これ、後藤さんの件ですが、知人が心配しすぎで具合悪くなっているようだったので心配しています。

「お客様は神様」の勘違い

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”お客様は神様だ”
横暴な消費者が蛮行を振る舞って問題になっていますが、サービス提供する側も受ける側も、「神様」の意味を勘違いしているから起こっている問題じゃないかなと思います。根本的な問題の話です。日本という国を形作ってきた「神様」に対する認識がおかしくなっていることが問題。
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そもそも神様ってなんなのか。一番大切に敬うべきものではありますが、暴力をふるうような権力者などの「偉い」とは根本的に違います。

神様っていうのは時には教えを頂き、時には真摯に頑張った人間に首の皮一枚のお力添えをくれる。そういう存在だから、権力者としての「エライ」とは違うはずです。
「お客様は神様」っていうのはそういう”教えを頂ける存在”だから大切にしなさいっていうのが本来の意味だと想うのです。その根本的な部分を理解しないと話がおかしくなる。これは古来からの日本人の考え方なのに、現代の日本はやはりそれが失われているんですね。

時として自然という神様は猛威を振います。時として神様は想像を絶する厳しい試練を人間に与えます。でもそれは利己的ではない。富でも権力でも欲のためでもない。誰のためか。それを受けるあなたのためです。
一方、神様気取りのお客様は、自己都合で振る舞っているだけでしょう。お店や店員のことを心から心配して叱責しているわけではないでしょう(そういうきちんとした人格者ももちろんいらっしゃるとは思います。)ましてや感謝の気持ちなんて微塵もないんじゃないだろうか。だから、そんな神様は日本にはそもそも存在しないんです。神様に対しての基本的な考え方って「感謝」この一点だけなのですから。

 神様という尊い存在が日常生活から、日本人の心から消えかかっている日本においては、一部を除いて、お客様=神様という図式は成り立たない国になってしまっているんじゃないでしょうかね。凄く残念なことなのですけど。「お客様」と呼ばれるべき人間が減っているんじゃないかなぁ。そんなことを考えました。

あなたは日本人らしい「お客様」として振る舞えていますか??
(自戒をこめて)