今月から週末に高尾山に入り法螺貝を吹いてます。
ある程度形になるまでスタジオとかで練習しようと思っていたけど早い段階で「これは楽器ではない」と理解し、山に教えを請うことにした。
今日は首にかけて山を歩いていたら
「やっぱり音が聞こえたの気のせいじゃなかった!」
と度々すれ違う人に声をかけられた。
遠くまで響くのはわかっていたけど、
ほんとに聴こえてるんだなと改めて驚きました。
そして下手くそな音が丸聞こえになってることに恥じらいも込み上げる(苦笑)
いっ時流行りだしたフィボナッチ数列。
自然界のあらゆるものがこの数列をもとに形作られ、成長していく螺旋構造を示す。
1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89…
フィボナッチ数列が易経「河図」の天数と同じ55を通過するのもおもしろい。
この自然界の法則がシンプルに形に現れている法螺貝は、そこから共鳴して放たれる音もまた自然界の法則をそのまま表している。
だから山々や自然と共鳴しながら無限に響く。
螺旋構造による循環であり
海と山の循環であり
自然界の循環である。
たまたま行きがけに読んでいた維摩経の本に仏の弟子の善徳長者が維摩居士にこう諭される場面があった。
「お金には限りがあるから施すなら誰にでも平等に施せる法を施したほうがよい」
これは合理的に考えてもなるほどと納得させられるものがあった。
そして誰にでも届く法、法螺貝はまさにそれを具現化したものだなと思った。
法を螺旋で広げていく、まさに字そのもの。
法螺貝は楽器ではなく法具。
今日一番の教えでした。
そしてそれを認識することでハードルが一気に上がった。
合掌。
という記事を書いてから2日経った今日、
あることが頭に浮かんできた。
やはり高尾山にはまだまだ祈りが必要なのではないか?と。
今月はじめ、最初に法螺貝特訓の場所を探しに高尾山にきた際、景信山まで往復6時間、散々歩いて最後にたどり着いたのが蛇滝口を出てすぐの河原。
初めてこの下山ルートをなんとなく選択し
ここが良さそうだと思い、穴あけたての法螺貝の試し吹きをしたのですが、、、
よーく思い返してみるとここ、圏央道で高尾山が土手っ腹に風穴あけられた真下だったんですよね。
(翌週に森の中でみつけた練習場所もここを向いて吹いてることになる)
なんであの時気付かなかったんだろう!
いや高速は目に入ったけど、山が削られた問題地点であることがとんと頭から抜けていた。
山のどでかい傷口なわけです。
学生の頃と比べると観光地化されて汚くなった印象のある高尾山ですが、そんなことよりも穴を開けられたことのほうがはるかに大きな痛手です。
この日以降、今月は毎週高尾山に来ようと決めたのですが、、、
たまたまこの場所でたまたま法螺貝を吹いたわけですが、よーく考えるとこれって「山に祈りを」ってことだよなー。
と考えるわけです。
高尾さん、そういうことでいいのでしょうか?
飯綱様、いかがでしょうか??
しばらく高尾山通いが続きそうだ。