寒行①〜蛇さん大集合その一

2年前から感度の高くなる寒行には、必ず誰かが出てくるようになった。

今年はどんなお坊さんだろうと楽しみにしていたら、、、なんとゾロゾロ並ぶ蛇さん達だった。

大寒1週間前の修行の帰り道、仲間と別れてホームで電車を待っていると後ろに沢山並んでいる気配に気づく。三連休最終日の夜にしては随分混むんだなぁと思いながらチラッと後ろを振り返ると、誰もいない、、、?!ふと冷静に考えハッとする。

「ん?どこで?なにがついてきた?」

師匠の下で修行できれいさっぱり祓った直後に一体なにがおこったのか?さっきまで焼鳥センターでみんなで呑んでいたから、そこで何かついてきたのか?

寒行の前は必ず何か起こるけど、早すぎないか?

しかもズラーーーッと半端ない人数。酔って感覚は鈍いはずなにこれだけはっきり感じるのはよほどの方々。

「明日は十五日の神日だから、今年の寒行は神日から始めるのもいいかもなぁ」と思っていた矢先にこの後ろの方々。

まあしかし、ゾロゾロ並んでいるけどそんなに重たい感じや嫌な感じはしない。ひょっとしてご先祖様なのか、、、?んーでもなんかご先祖様もいる気はするけど大半がそんは感じではない。

この状況、明日から寒行を始めるべきかと考えたが、19日は大事な試験を控えていた。

本来は試験も無事終えて20日の大寒からしっかりスタートのつもりだったので、心身の準備ができていない。万が一風邪を引いて試験前に寝込むわけにもいかない。あれこれ吟味した末に、神日スタートは見送った。

ところがその夜、やはり後ろの方々が気になって仕方がないので「これはやらないとダメなパターンだな」と腹を括り、翌朝から急遽スタート。蝋燭も激しく溶け落ちたのです。この形はもう龍か蛇だよね…

ダウンしないか今年はさすがに不安が募る。テスト目前だからなぁ。

自分の場合、寒行は左右頭ワンセットを3回、そのあと水風呂に浸かりひふみ祝詞と般若心経一巻。かなり冷える。

後ろの方々に「一日1人ずつ一緒に入って頂きますからねー」とお断りして始まった。

そして20日の朝まで、1日1人ずつだからか毎日水の中であげるものが違ってくる。上にあがっていく感じでもないから仏様ではないらしい。

そして大寒の20日の午後、師匠のもとへ伺い、後ろ方々の相談をしてきた。。。

そしたら面白いことになってしまった。

大寒①〜日本人はたぶんもっと水を浴びたほうがいい

大寒①〜日本人はたぶんもっと水を浴びたほうがいい

今年もいよいよ大寒がやってきた。

寒行のスタートです。

例年より暖かいとは言ってもやはり冷え込むのが大寒であって、相対的に明日の朝はかなり寒いんじゃないかと思っております。

寒いと身体がびっくりします。

もとに戻そうと視床下部が働き出し

サイロキシンが分泌され

産熱作用が促進され

体温が上がります。

震え産熱も起こります。

こういう身体の循環・反応が鈍くなっているのが現代の日本人。

施術をさせて頂くと

「身体の感覚が死んでるな」

と感じる方と度々であいます。

感覚が鈍くなっている

感じる力が弱くなっている

現代の私たち。

そういう感覚を呼び起こす

身近な方法として寒の水行は

実は年間で最も効率のよいものだなと

思います。

それが修験では滝行になるわけだけど、

滝じゃなくても大寒に水をかぶるのは

それなりのインパクトを引き起こす。

身も心も引き締まるし

何より感覚が呼び起こされる。

一般的な行事として各地で寒中水泳があるのも

そういう理由だと思います。

4年前震災直後のネパールを訪ねた時、

水のシャワーが当たり前と知りました。

そして数日間、それを体験。

道端では子供が水を浴びている。

ネパールの人達がなぜか

いつも楽しそうで自由な理由の一つが

毎日水で清めているから。

私の中ではそうなってます、笑

ちゃんと清めてるから自由。

「感覚が鈍ってるなぁ」

そう感じる方には

大寒の水行、おススメします❄️

(高血圧、心臓の悪い方はご注意を)

by寒行促進委員会

まず「受け給う」

〜まず「受け給う」〜

出羽三山の山伏修行では「受け給う」が全て。

その言葉を発してから全ての所作が始まる。

自然の力はいつも偉大であり、時には理不尽でもある。

こちらに選択権も拒否権もない。

全て受け給う以外に選択肢はない。

大自然へ身を置いて修行するというのは

おそらくそういう意味もある。

全ては天から与えられたものである以上、

受け給うことが天と一致することでもあり、

それが善を積むということにつながる。

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同じところをグルグル廻ってる人は

「受け取れない」。

というより「受け止めない」

受け止めないから受け取れない。

誰かからの言葉も受け取れないし

ふとした気付きも受け取れない。

受け取る構えがないから

天からのサインも受け取れない。

たがらα1からスタートしてα1へ戻ることの繰り返しになる。

受け給うとα1から循環しつつ

たどり着くスタート地点はα2へレベルアップする。

螺旋の循環にのっていく。

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受け止められないのは文字通りの「空」

つまりスペース=余裕がないからで

そのためにはやはり不要なものを

何かしら手離すしかないんじゃないかと思う。

その手離すものは果たして何なのだろう?

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手離すとは切り捨てるイメージを持つかもしれないが、実は許容することでもあると思う。

例えば、認めたくない自分があるとする。

認めたくない自分とは赦せない自分である。

「そうあるべき自分」である。

どちらも味わうのが「空」だが、

片一方に囚われたのが「そうあるべき自分」。

そして「そうあるべき」とさせているのは自分であり、周りは実はあなたに対して「こうあるべき」とはたいして思っちゃいないし、期待していない。

「べき論」はあなたの激しいひとり妄想に過ぎない。自分一人で勝手に自分に期待をしているに過ぎない。

「べきではない論」もまた同じことである。

本当は「こうあるべきではない」のではなく、「それもまたひとつの自分」と許容すればいい。

マイナス1の自分を認めればそれに対立する

プラス1の自分も存在し得ることになる。

理想的なプラス1の自分が手に入らないのは

マイナス1の自分を赦せていないからである。

限りなく攻撃的な自分がいるのは別におかしいことではなく、そいつが存在するならその真反対には限りなく優しい自分もいるはずなのである。

全てが自分であり、全てが存在して一つの自分である。

どれかに囚われるのではなく、その狭間で味わっているのが本当の自分なのだと思う。

その狭間でしずかに観察しているのが自分なのだと思う。すなわち「空」なんだと思う。

今ある自分を受け給う。

そしてこれまでの自分も受け給う。

現在と過去が受け給へれば、

未来も受け給へる。

自分を受け給へなければ、他人だって当然受け給受へない。

般若心経はたしかに否定することで肯定をしている。

しかしそもそも全てを一度「受け給う」ことができなければ、何も始めることができないし何も起こりようがない。変わりようがない。

自分を「受け給う」ことが全ての始まりなんじゃなかろうか。

御守り頂きました

昨日は須磨寺

今日は湯島天神

2日連続でお客様から突然お守りを渡される。

ここ数年お守りを頂くなんてことは

なかったのでなんだか不思議な感じ。

(むしろお渡しするほうですからね)

お心遣い有難う御座いますm(_ _)m

後ほどよくよく考えると須磨寺は源氏からみかなと由緒を調べて思ったのですが、年始の初詣の上杉謙信とだんだん結びついてきたのでまだ謙信と繋がってるのかもしれない。おもしろいものです。