「修行日記」カテゴリーアーカイブ

より素足に近づけて山を感じる

最近足元に常に集中しています。

ふとしたきっかけでルナサンダルで山駆けしてるのですが、一本歯下駄の前段階に丁度いいと思いサンダル装備で歩く・走ることを見直してます。

支持基底面積の狭い踵からの着地は

捻挫も起こしやすく、

足の本来のバネも損ね、

個人的経験からも膝を痛めやすい。

つま先のほうから着地する。

親子連れを後ろから観察してると

面白いことに小さい子は踵から着地はしていないんですよね。

子供の頃のほうが自然な足運びができている。

ルナサンダルは地下足袋と同じ感覚でフィットし

なおかつ足元が晒されるので

より感覚は鋭くなる。

地の気を取り込む足元も

周りの気を感じ取りやすいので

自然との一体感も強い。

膝や足首や足の裏を痛めやすい人ほど

こういうワラーチ系サンダルを履いて

足の使い方を見直すといいと

実際に履いてみて強く思う。

守られているとどうしてもそこに頼って

怠けてしまうのが人の常。

ほぼむき出しのサンダルだとやはり

意識が変わらざるを得ないのが

おもしろいところ。

私もサッカーや登山の度重なる捻挫で足首の靭帯は一部なかったりとウィークポイントは多々あり、ここ数年で色々気をつけてきましたが、

重心の置き方の調整や、

セルフケアをすればサポーターなしでも

無理なくパフォーマンスがあげられることがわかってきた。

なかなかこのサンダルは奥が深いです。

ルナサンダル

踵から着地しないことがポイント

足元から山を感じて高尾山を走る(6号路)

筑波山の禅僧さま

先月末、月初に訪れた筑波山の件で気になっていたことがあったので師匠のもとへ。

どうもお坊さんがついてきている。

筑波山の上はとても清々しかったけど、行きも帰りも麓の道に差し掛かると浮かばれない御霊がどうも沢山語りかけてきて、頭が痛くなる。

これ、下調べでなんとなく予想はしていたのだけど、麓だけこんな感じになるのが予想外だった。筑波山は大昔から性に寛容な面があったらしく、そういう風習もあった名残で、江戸時代には遊郭に通う僧侶も沢山いたらしいので、そういう関係の浮かばれないお坊さんなのかなと予想してのご供養修行だっのですが、、、

師曰く、

「あんたの修験の先祖も出やすいだろうから、やっぱり陀羅尼かねぇ」

といわれ仏頂尊陀羅尼と大悲心陀羅尼がセレクトされた。最近後ろのお方がやりたがるので日課でも必ずあげている陀羅尼だ。

今回は理趣経をやる気がしていたのでちょっと意外だった。このふたつの陀羅尼だと内容的にも早く終わりそうだし。とかんごえるのは早計だった。

「の〜ぼ〜ば〜ぎゃ〜ば〜て〜」

仏頂尊陀羅尼から始まると、なかなか終わらない。

何度もループする勢い。

陀羅尼が止まらない。

なんとなくまだまだあげ足りない、上がりたい方が沢山いるような感覚。

なんだこれ、大丈夫かな。

あがりたいお坊さんの供養だと思っていたのに、なんかとんでもない数がいらっしゃる。

数回繰り返して大悲心陀羅尼へ。

これも3回ほど巡ってようやく終了。

師曰く、

「いっぱいあがったねぇ。あそこで供養してる途中に死んじゃった禅僧だったね。中途半端になった成仏できなかった人達、あんたに手伝ってもらってみんなあがっていったねぇ」

あー、なんかあげてもあげても終わらない感じはそういうことだったのか。後ろに沢山控えていたとは。。。しかしそんな禅僧さまだったとは。堕落したお坊さんと思っており大変申し訳ありません。まだまだ修行が足りない。

しかし禅僧殿のお手伝いができこちらも行者冥利に尽きますぞ!!

「このお坊さん、あんたに入っていったから。あんたといれば修行できるからね」

なに!?これは初めての展開…。昨年もとある頼りないお坊さんからこちらにうつってきた前科ありの入道がいたけど、まさかちゃんとしたお坊さんがこちらにいらっしゃるとは。有難いお話。

ご先祖様たち共々これからも宜しくお願いいたします、禅僧殿。

ますます陀羅尼に励まねば。

<供養>

仏頂尊陀羅尼

大悲心陀羅尼

後悔のない人生を生きる

新盆。

お盆はご先祖様はもちろん、

無縁仏やご供養が必要な方もわらわらする時期。

そんな時期になってきたからなのか

先日某所の解剖見学でとあるご献体と遭遇。

何やら思い残すことがあるご様子。

師匠のもとでご供養のお経をあげさせて頂いた。

こんなとこでも出逢いがあるとは。。。

人との出逢いで学ぶこともあれば

通りすがりの仏様との出逢いで

教えを頂くことも最近は増えてきた。

この日はもうひとつ、

心を閉ざしてしまった友人に向けて祈祷もさせて頂きました。

2つの案件に共通するのは自分と向き合うこと

願わくば残すのは清々しさ、

もといきよきよしさ。

後悔しない生き方を。

死んだあとは未練なく

清々しい気持ちで身体をほっぽって

上に上がりたいものです。

後悔しない生き方とは

なにかを成し遂げることより

自分を大事に生きること

自分と向き合って生きること

自分をゆるすこと

自分に正直であることなのかもしれない。

そんなことを考えさせられました。

〈祈祷〉

般若心経

観音経

大悲心陀羅尼

〈供養〉

大施餓鬼

仏頂尊勝陀羅尼

祈り〜穏やかに

我が家の仏部門のセンターを飾るネパールで頂いた仏様。

夏越の祓の掃除でお磨きすると、

風呂上がりのようなほわっとした表情に。

普段はこんな感じには見えることはなく、

結局この日限定の風呂上がりフェイスだった。

穏やかであるというのは

強さがなければできないこと。

いつもこんな穏やかな心持ちで

在りたいと思いつつ

穏やかな日々が早く戻ることを祈ります。