健康にも関わる重要な話として
“誰かのため”は病気になる危険な思想である、
ということを挙げておきます。
お国のため→戦争
社会のため→共産主義
子供のため→毒親
あなたのため→自己否定してる自分の正当化
自分のために生きることが
責任を転嫁しない健全な生き方であり、
自分のためだからこそ
相手も快く施しやお節介を享受できる。
“誰かのため”は偽善者のいい訳でしかない。
やりたいからやるのだ。
自分の柱があるから
そこを中心に世界を作れる
自分の柱があるから
誰かを助けられる。
そこをはきちがえてはいけない。
“自分のために”がない
“誰かのために”は
脆くすぐ崩れる。
つまり相手にも迷惑をかける。
“お互い様”があるようでない。
自分主体でなければ
必ず責任をどこかで投げ出す。
裏を返せば”逃げ”があるから
誰かのためと理由をつける。
そうではない。
やりたいからやるのだ。
自分を生きよ。
これはこの同調圧力の蔓延する
いまの状況下においてもいま一度、
自分に投げかけるべき
問いではないでしゃうか。
最近「苦しい」「辛い」とばかり呟きながら祈祷してる方のSNSが気になっていたら、
「苦しみ」というのが周りと色々リンクしてきたので苦しみについて考えてみた。
「苦に甘んじる症候群」が存在する。
かつては自分もそうだったなと思いつつ。。。
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だいぶ前に師に
「苦行をすれば修行があがると思うのは大きな間違い」
と言われたことを思い出した。
修行は厳しいことも沢山あるが
苦しさを求めるものではない。
それはお釈迦様がすでに実践して
無意味だと答えを出している。
その意味を考えてみた。
苦は自ら求めるべきでないものだとして、
では避けられない境遇の場合はどうなのか?
仕方ないのだろうか?
回避するための手段を
全て試してみたのだろうか?
根本的な原因を見つけられているのだろうか?
苦に耐えるというのは
一見「やった感」が出てくる。
耐えているんだから自分を褒められる。
「耐える」というのは悲劇のヒロイン思考に陥っていないかに注意したほうがいい。
そしてその耐えている状況を冷静にみたときに
「思考の放棄」をしていないか?
ということに着目したい。
苦行はやった感、満足感が得られるから
その先を考えなくなりがちだ。
痛めつければアドレナリンもガンガンでるから
生理的にみても尚更そういう傾向に陥りやすい。
人間の脳は楽なほうにいきたがる。
思考しやすいほうに流される。
そういったことを踏まえて考えたときに
苦行というのはあまり建設的ではないことに
気付く。
悟りであったり中庸であったり
エネルギーが空の状態であったり
理想がそういうところである以上、
苦行で苦が続いているうちは
それは目的を達成されていないことになる。
苦から解放されなければ
成就とはいえない。
しかし困ったことに「やった感」だけは
得られてしまう。
お釈迦様が苦行をやめたのは
結局そこのように思う。
悟れないのに「オレはやったぜ感」「満足感」を得てしまえば道を見失う。
そして仮に苦行の先で答えが何も見つからなかった場合、いったい誰が幸せになれるのだろうか?
という問題もある。
むしろ周りを不幸にする。
自分が幸せでなければ
他の誰をも幸せにはできない。
犠牲の上に成り立つ幸せも世の中にはあるかもしれないが、犠牲になった人はその中の喜びや幸せを知っているから犠牲になったのであって、寧ろ犠牲とは思っていないだろう。
もし本人が犠牲になったと感じていたら、
それがわかってしまった時点で
結局相手も十字架を背負うので
幸せになることは難しい。
自分の中に幸せがなければ
誰も幸せにはできない。
苦行の成れの果ては
不幸のデススパイラル。
苦を楽に変える方法を考えること
苦を楽に変える視点を持つことが
日々の暮らしの中では
一番大切なことじゃないのだろうか。
苦を楽に変える視点と智慧を備えていないと
人は最終的に悪の道に陥りやすい。
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人間は色眼鏡で世界を見てしまう。
そう思い込む。
むしろ思い込みたい癖がある。
しかし物事は多面的であり人によって見え方は様々あるもの。
自分の常識は勝手な思い込みくらいに考えていたほうが、相手の気持ちを考えるにはちょうどいい。
例えば自分の場合、
こういうことをやっていると
苦行をしているように見られがちだけど
それは大きな勘違い。
入り口はたしかに苦行なのだが、
一度やれば
やった分だけ何かが返ってくると
わかってくるから、体感しているから
楽しみだからやっている。
実はただそれだけだったりする。
楽しみがなければ人間は続けられない。
それは紛れもない事実。
「苦楽」という言い方がされるように
苦と楽は陰陽のようにセットになっているもので
単一のものではない。
苦の中の楽
楽の中の苦
その関係性を捉えたときに
「苦しい」というのはその中の
「楽しみ」がまだ見つけられていない
だけなんだと思う。
言い換えれば「楽しみ方」だろうか。
世の中にはそれに対処できる
やり方や術というのが必ずあり、
それを学んだり創意工夫するのが
人間の生きるという使命の全うでもある。
「一生勉強」とはそういうことを意味する。
小手先や上辺だけの知識や技術ではなく、
生きぬける力、ものの見方、考え方を
学ぶことが必要だ。
そういう学びを自分の生活に活かすことで
新たな気づきや楽しみが見つかってくる。
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苦行によって今の苦しみから脱しようとするのは
悲劇のヒロイン思考であって、
そこに解決の糸口は見つからない。
(仮に見つかった時はすでに苦が楽に転換した時だ)
痛めつけることでハイにはなれるかもしれないが
それは対処療法でしかない。
それを意図的にやっているならまだしも
しらずしらずに、
無意識的にやってるケースが
意外とあるもんだよなぁと恐くなった。
ただ耐える、というのは
頑張っているようでいて実は
やるべきことを頑張れていない
可能性が潜んでいる。
やるべきことは
解決できる智慧を借りること
視点を変えること。
生きづらさを作っているのは
誰のせいでもなく自分。
自分を変えれば
周りは変わり
世界も変わる。
生きている意味のない命なんかない。
あなたが生きていること自体が、誰かの気づきや学びになっている。
生きていること自体がお陰様。
だから今を精一杯生きる。
山岳信仰の里の行者&鍼灸師です。科学と信仰の統合を。