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アフターコロナ2つの真実

昨夜の密談で気付いた2つの”真実“。

・いまならノーマスクになればソーシャルディスタンスが確実に保てるという真実。暑苦しいから徹底的に距離は保ちたい。

・この期に及んでGAFA最高とか言ってるアホには無関心な超監視管理社会への移行問題だが、よく考えるとそもそも田舎は昔からアナログですでに超監視社会化されており、その監視網のエグさはテクノロジーが介入した世界の比ではないという真実。監視社会で差別社会が田舎というエリアだ。今回のコロナでもやはり地元でも差別は発生している情報は目にする。テレビみて”黒人差別問題に心苦しい”と言ってる場合ではなく、足元をしっかり見ろというお話。他人事で捉えてる以上は一生足元の問題には気付けない。

真実は奇なり

そして酷なり_(┐「ε:)_

皆さまよくお考え下さいね。

【密×ノーマスク×セミナー】

今日はがっつり”密密”な医療系セミナー

ノーマスクで参加してきました。

「感染症は西洋医学の王道のだったはずなのだが…」というくだりがでてきて、

色々考えてしまいました。

いまの国家資格としての鍼灸における

臨床医学各論の教科書で感染症は

たった19ページで終わっています。

全330ページあって19ページで片付けられてる。

あとは習慣病である現代病にかなり多くを割いている。

もちろん鍼灸師においては

免疫をあげて防ぐ以外に対応はできないから

医師に比べればそこまで突っ込んで触れないのもあるのだろうが、

それでも免疫が結局本当に一番大事なとこなのを考えると、

19ページでさくっと終わらせてしまっているのはやはり少ない。

逆に「感染症なんて普段から無数に起こるのだから免疫あげとく以外に小細工を何しようがしょせんムダ」という前提のもとで、

さくっと終わらせているなら

それはそれで納得はいくのですが。

しかしだからこそ

一番遭遇する確率が高くなる

日常的な症例であれば

やはり基礎に基づいた考え方や対応方法に

時間はきちっと割くべきでしょう。

そしてそんなお触り程度の内容の結果、

結局今回のようなことが起こり、

フェイスシールドだの消毒だのと

医療系学校が騒ぎ出すのでは

お話にならないなと

呆れてる次第です。

医療系の人間ですら免疫について

きちんと理解して考えられているのか?

という疑問がこういう面からも

ちらほら見えてきます。

学問ってなんでしょうね、

っていうね

そんなんで

「患者を治す」と

どの口が言うのか?

まったくダルイ話なのです_(:3 」∠)_

【常在×感染症×細菌】

【常在×感染症×細菌】

朝10分ほどテレビ見てて

腹が立ってきた。

(相棒すきなので基本テレ朝、羽鳥の朝のやつです)

ほんとにテレビは精神衛生上良くないし、

頭が悪くなる要素で溢れている。

巨人軍の報道、

むちゃくちゃやな。

そもそもPCRでは正確さに欠けるから

感染済みか安心を確保・担保するために

抗体検査をしましょうという話だったと

思うのだが、なぜ遡る??

「抗体検査で陽性がでたから

念のためにPCRもやってみたら

陽性だった。しかし症状はなかった。」

なに当たり前なこと言ってるんだろう。

感染して免疫できてるんだから

抗体できてて当たり前。

感染したのだから

PCRが仮にあてになるとしたら

増幅したRNAを検出できて当たり前。

PCR自体が他のウイルスでも陽性反応が十分ありうるものなのに、抗体検査やってから遡ってたらまた不要な陽性者がどんどん増える。

そもそも感染症の「感染したらかかります」という設定がフェイクで、

教科書に載ってるような感染症を引き起こす

細菌は私たちの血液中や体表に知らないうちに感染していてすでに常在しているのだ。

免疫で抑えてるから

共生できてきる。

水虫の菌だって常にいるのが当たり前。

免疫が落ちるから感染症になる。

公共のお風呂場とかどう考えても

ゼロはあり得ないでしょ。

いるのが当たり前であり、

免疫で普段は抑えてるから共生できてる。

感染症の考え方の基本はまずそこ。

「感染して発症します」は完全なフェイク。

そこら中にうじゃうじゃいる

細菌やウイルスが怖くて仕方ないのなら

もうこの地球には住めないことになる。

またウイルスの感染は私たちだけでなく

体内や体表の常在菌に感染することもある。

逆に常在菌がウイルスを食べることもある。

つまりPCR検査は私たちが感染してなくても、

粘膜上の常在菌が感染したウイルスのRNAを拾ってるかもしれないし、

常在菌が食べたウイルスの死骸のRNAを検出してるだけかもしれない。

その出所がいくつか考えられるウイルスのRNAをガンガン増やして検出できるようにしているのだから、

「遺伝子量は微量、正常値ギリギリだから安全です」

という評価の仕方もナンセンスなのは

少し考えればわかること。

RNA増幅して検出してるのに

「微量で正常値」

そんな基準に何の意味があるのか。

マジで意味わかんない_(┐「ε:)_

【修験×自然×世界×現実×学問】

【修験×自然×世界×現実×学問】

修験道は自然とひとつになって

世界=神を感じる信仰だ。

向き合えば向き合うほど

混ざれば混ざるほど

そこに人間のエゴや思惑は

挟まれる余地はなくなっていく。

世界は目の前にただ在るのみ。

偏見も差別も

そして容赦もない。

自然と向き合うことは

純粋な科学であり

純粋な医学であり

純粋な量子物理学でもあり

純粋な学問へ自然とつながっていく。

一方で宗教というのは時として

為政者や支配者側の思惑が働く。

昔も今もそういう要素の方が強い。

そういう大衆のための道である信仰と

為政者側のための宗教はよく観察すると

巧妙に入り混じっている部分があるので

注意しなければならない。

今回のような有事の際において

自分の振る舞いを考えるにあたって

一体だれのための信仰なのか?

というのを毎日問いつづけていた。

いま現代において望ましい形は

“大衆のため”だろう。

木曽御嶽山における大衆信仰の

起こりと流れからわかるのは

江戸中期に神事(神懸)は権力者から

大衆へと広がる動きがあったことだ。

(逆にこの頃に為政者側はすでに神仏分離を始めている地域もあった点はかなり興味深い)

これは全国的に起こった。

いわば宗教のデモクラシーだ。

その中心は修験道という領域を

中心に起こっている。

全国に沢山の講が起こった。

私はここ数年、

修験廃止令というものは

明治の神仏分離令を

より徹底するために

行われたと考えていたが

それだけではないなと今回気付いた。

珍型コロナの虚構や煽動を踏まえて

いまの世界を俯瞰すると、

明治になぜ修験道が廃止されたのか

その本当の理由がいまなら

よくわかる気がする。

純粋に世界と向き合われると、

嘘で取り繕いたい側からすると

とても宜しくない存在なのですよね。

当時もそういう先人が

沢山いたのだろうと。

あの時代も世界と対峙するために

取り繕わなければならなかった。

そこに対して絶対的な自然界を柱とする修験道は

もっともニュートラルな存在であり

なんとも邪魔な存在になりうる。

取り繕ったその後の末路は

いま終焉を迎えようとしている

戦後時代のスタートと入れ替えで終わった。

こういう流れを振り返ると

修験道の立ち位置や在り方を

改めて考えさせられる時間でもあった。

色眼鏡のない世界、

固定観念のない世界、

しがらみのない世界、

嘘偽りのない世界、

そしてありのままの世界。

それが自然であり宇宙であり

いつも私たちの目の前にありながら

現代人がすぐに見失う世界なのです。