震災の「忘れない」で考える事


3.11が近づくと特に頻出する「忘れない」という言葉。

これは捉え方としては危うい面もあると最近気づいてきた。
3.11に関して言われる「忘れない」は、被災者が「忘れられるのが怖い」という不安を受けての「忘れない」であり、被災していない地域の我々が被災地のことを「忘れない」ということであり、先人の言い伝えをいつの間にか忘れ津波を再び受けてしまったことや、その他様々な問題に対する教訓としての「忘れない」であると思う。

これらとまた違う立場の「忘れない」がある。
被災者ご自身の震災経験としての「忘れない」だ。
どちらかといえば「忘れられない」かもしれない。

もちろん忘れられなくて当然だと思うが、そこに囚われすぎて前を向けない方がまだ大勢いる現状がある。想いは大切にしたいが、私達は「過去」ではなく「現在」を生きている。与えられた命、生かされた命には何かしらの意味があるはずだ。与えられた命に感謝して「現在」を大切に生きる。そう思えるようにするには一体私達は何ができるのか?5年目の課題のひとつはそこにあるように思う。

修行の教えで「執着は身を滅ぼす」と先生や先輩がよく口にする。「忘れられない」を執着という言葉に言い換えると少々乱暴な気もするが、現在に生かされていることに感謝できるかどうかでこの「忘れられない」の意味もだいぶ違ってくるとも考える。

非常に難しい問題ではあるが、世の真理でもある。
いつも同じ自分でいるようでいて、本当は細胞も入れ替わり立ち替りしているので毎日が違う自分だ。
そして周りもくるくると同じように変化している。
一時として同じ「いつもの日々」はないのが真実だ。
日々に感謝して生きていたい。
この世は無常ですから。