基本的に神社を参拝する時は「感謝の気持ち」だけを伝るだけでいいのです。これが日本古来からの神道の基本的な考え方です。今こうして命をいただいて生かされていることに感謝することが大事です。それがしっかりできていれば、いざというときもお力を貸していただけることがあります。
逆に、何かお願い事をする時は注意が必要です。神様へお願い事をするということは、神様と「契約」することにあたります。契約した以上は成就させるために、本人もしっかり努力しないと力を貸していただけません。
そしてお願い事が成就したら必ずお願いをした神社に「お礼参り」へ行きましょう。願い事がかなったらきちんとご報告して感謝の気持ちを伝えることが大事です。これを疎かにするともう力を貸していただけないかもしれません。神様事情って意外と厳しいです。(お賽銭なしでお願い事なんてもってのほかですよ。。。)
これを踏まえて気をつけたいのが遠方の神社へ参拝する時。有名なご利益のある神社だからと言って、遠路遥々参拝した神社でお願い事をした場合、お礼参りが大変になってしまいます。
それができるのであれば問題ないですが、お願い事は普段行きやすい神社でおこなったほうが無難といえます。
それに自分の家から近いほうが、心が折れそうになった時でもすぐに神社へお参りしに行くことで、また決意新たに気を引き締められます。へこたれそうになったら願をかけた神社でまた気合いを入れ直します。そのほうが確実性もあがると思いませんか?
普段から「感謝」の気持ちを持ち続けているだけで、力を貸していただける機会が増えていきます。人とのご縁も増えていきます。これは行者になる前からの私の実感値。ぜひ試してみてください。
感謝するという基本をしっかり忘れなければ、ミラクルって意外と起こりやすいものなのです。
後藤さんの件について、法政大学の学長の言葉。
凄く本質的な素晴らしいメッセージだなと感じました。
私も法政のOBとして共感いたします。
後藤さんには後藤さんのお役目があったのだと思っています。
今回救われなかったことに対して「神はいない」と絶望している方がいるのですが、
後藤さんはしっかり神様を感じていたと私は思っています。
そうでなければ、あのような行動はとれないでしょう。
信念は貫けないでしょう。
彼の示したもの、本当に伝えたかったことを我々がしっかり受け取れるかどうかが一番大切だと思います。
「憎むは人の業に非ず。裁きは神の領域。」
アラブ兄弟のこの言葉の真意を世界が理解しなければいけない。
「テロには屈指ない」
この大義名分のもとに戦争が繰り広げられても、同じことの繰り返しでしょう。
そこを見誤ってはいけない。
「テロが悪」ではない。
テロを生み出している根本はそもそも何なのか。
そこを見極めなければいけない。
後藤さんのご冥福を心よりお祈りします。
今週末、箱根の九頭竜神社を訪ねます。
なぜって、先月の修行からどうも龍がお呼びなようなのです。
修行で先生から「あんたから九頭竜が出てたわよ。九頭竜神社行って来なさい。あそこいいから。ご神水買ってきてね」
(先生、オレはお使いかいっ!)
というこやりとりが先々週だったのですが、先週の星祓いでまた新たな展開が。
「あんたの後ろの人は龍使いだね。」
さらに福島支援のためにあたらしいお力を授かったところ
「あんたのこの指とこの指は龍が強くて入らないよ」
挙句の果てに、その日帰宅後、先輩に修理してもらったお数珠の水晶玉に変な模様が浮き出てきた。
「これなんでしょうか」
「龍のうろこだろ」
寒行中ずっと龍神祝詞を挙げていたせいか、本当にお呼びのようです。
いやはや。
待っててね。
日本人にとって祈りは基本の一つだと思います。
そうやって難を逃れてきた歴史があるから。
資本主義システムなアメリカにはあまり通用しない気がするが、信仰のある国には或いは。。。
命は平等です。
助かるべき命というものはないし、助からないべき命というものもない。
皆、平等に尊いもの。
どんな偉業を成し得ているとしてもそれは変わらないでしょう。
だから大切にしなきゃいけない。
無関心は罪ですが、しかし囚われすぎるのもよろしくない。
昔からの教え。
執着は時には身を滅ぼす。
たぶん執着した祈りは純粋な祈りとして届かない。
そんなことをふと思うと、やっぱり感謝が大前提、そこにいきつくのかな。
自分の命も大切だし、家族や周りの命も大切だし、命は皆平等なんです。
そういう前提を踏まえていないときちんと届かないんじゃないかなと、ふと思ったのでした。
まずは自分の心をしっかり持っていないと、届くはずの祈りも届きません。
これ、後藤さんの件ですが、知人が心配しすぎで具合悪くなっているようだったので心配しています。
山岳信仰の里の行者&鍼灸師です。科学と信仰の統合を。