「山伏日記」カテゴリーアーカイブ

【苦に甘んじる症候群×智慧×視点】

最近「苦しい」「辛い」とばかり呟きながら祈祷してる方のSNSが気になっていたら、

「苦しみ」というのが周りと色々リンクしてきたので苦しみについて考えてみた。

「苦に甘んじる症候群」が存在する。

かつては自分もそうだったなと思いつつ。。。

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だいぶ前に師に

「苦行をすれば修行があがると思うのは大きな間違い」

と言われたことを思い出した。

修行は厳しいことも沢山あるが

苦しさを求めるものではない。

それはお釈迦様がすでに実践して

無意味だと答えを出している。

その意味を考えてみた。

苦は自ら求めるべきでないものだとして、

では避けられない境遇の場合はどうなのか?

仕方ないのだろうか?

回避するための手段を

全て試してみたのだろうか?

根本的な原因を見つけられているのだろうか?

苦に耐えるというのは

一見「やった感」が出てくる。

耐えているんだから自分を褒められる。

「耐える」というのは悲劇のヒロイン思考に陥っていないかに注意したほうがいい。

そしてその耐えている状況を冷静にみたときに

「思考の放棄」をしていないか?

ということに着目したい。

苦行はやった感、満足感が得られるから

その先を考えなくなりがちだ。

痛めつければアドレナリンもガンガンでるから

生理的にみても尚更そういう傾向に陥りやすい。

人間の脳は楽なほうにいきたがる。

思考しやすいほうに流される。

そういったことを踏まえて考えたときに

苦行というのはあまり建設的ではないことに

気付く。

悟りであったり中庸であったり

エネルギーが空の状態であったり

理想がそういうところである以上、

苦行で苦が続いているうちは

それは目的を達成されていないことになる。

苦から解放されなければ

成就とはいえない。

しかし困ったことに「やった感」だけは

得られてしまう。

お釈迦様が苦行をやめたのは

結局そこのように思う。

悟れないのに「オレはやったぜ感」「満足感」を得てしまえば道を見失う。

そして仮に苦行の先で答えが何も見つからなかった場合、いったい誰が幸せになれるのだろうか?

という問題もある。

むしろ周りを不幸にする。

自分が幸せでなければ

他の誰をも幸せにはできない。

犠牲の上に成り立つ幸せも世の中にはあるかもしれないが、犠牲になった人はその中の喜びや幸せを知っているから犠牲になったのであって、寧ろ犠牲とは思っていないだろう。

もし本人が犠牲になったと感じていたら、

それがわかってしまった時点で

結局相手も十字架を背負うので

幸せになることは難しい。

自分の中に幸せがなければ

誰も幸せにはできない。

苦行の成れの果ては

不幸のデススパイラル。

苦を楽に変える方法を考えること

苦を楽に変える視点を持つことが

日々の暮らしの中では

一番大切なことじゃないのだろうか。

苦を楽に変える視点と智慧を備えていないと

人は最終的に悪の道に陥りやすい。

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人間は色眼鏡で世界を見てしまう。

そう思い込む。

むしろ思い込みたい癖がある。

しかし物事は多面的であり人によって見え方は様々あるもの。

自分の常識は勝手な思い込みくらいに考えていたほうが、相手の気持ちを考えるにはちょうどいい。

例えば自分の場合、

こういうことをやっていると

苦行をしているように見られがちだけど

それは大きな勘違い。

入り口はたしかに苦行なのだが、

一度やれば

やった分だけ何かが返ってくると

わかってくるから、体感しているから

楽しみだからやっている。

実はただそれだけだったりする。

楽しみがなければ人間は続けられない。

それは紛れもない事実。

「苦楽」という言い方がされるように

苦と楽は陰陽のようにセットになっているもので

単一のものではない。

苦の中の楽

楽の中の苦

その関係性を捉えたときに

「苦しい」というのはその中の

「楽しみ」がまだ見つけられていない

だけなんだと思う。

言い換えれば「楽しみ方」だろうか。

世の中にはそれに対処できる

やり方や術というのが必ずあり、

それを学んだり創意工夫するのが

人間の生きるという使命の全うでもある。

「一生勉強」とはそういうことを意味する。

小手先や上辺だけの知識や技術ではなく、

生きぬける力、ものの見方、考え方を

学ぶことが必要だ。

そういう学びを自分の生活に活かすことで

新たな気づきや楽しみが見つかってくる。

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苦行によって今の苦しみから脱しようとするのは

悲劇のヒロイン思考であって、

そこに解決の糸口は見つからない。

(仮に見つかった時はすでに苦が楽に転換した時だ)

痛めつけることでハイにはなれるかもしれないが

それは対処療法でしかない。

それを意図的にやっているならまだしも

しらずしらずに、

無意識的にやってるケースが

意外とあるもんだよなぁと恐くなった。

ただ耐える、というのは

頑張っているようでいて実は

やるべきことを頑張れていない

可能性が潜んでいる。

やるべきことは

解決できる智慧を借りること

視点を変えること。

生きづらさを作っているのは

誰のせいでもなく自分。

自分を変えれば

周りは変わり

世界も変わる。

‪【螺旋×柱×宇宙】

最近新たに法螺貝を作るためにいくつか取り寄せたのですがサイズ違いの法螺貝を比較してみました。

比較してみるとこのたった数センチの長さが

とても大きな重みを持つことに気付く

螺旋構造の成長。

(値段も比例して上がります)

宇宙の成長もこいうことなんだろうな。

人間としての成長もこうありたいもの。

同じ円周でぐるぐる回って

時間だけ過ぎるのはもったいない。‬

より大きい円をきれいに描いていくためには

その中心となる軸がなければらならない。

軸がぶれれば軌道がズレて

歪な形になってしまう。

軸とは自分軸であり

自分の中心となる柱。

軸をしっかりさせるには

自分の中心となる柱を

クリアにしていくことが不可欠。

その人の宇宙は

その人の生き方だったり

信仰するものだったり

そういう柱をもとに

螺旋の構造で拡大していく。

柱を立てることで

宇宙を成長させられる。

そういえば神様は「柱」であらわす。

信仰とは自分という宇宙を成長させるための

柱なんだろうな。

浄化の火

本山での祖霊祭で護摩焚きで火にいれる祈祷札を提出するのが遅れてしまい、祈祷を自分でやることに。

ところが祈願の数が多くちょっと持て余してしまったので結局師匠のもとで指導を請うことに。

直ぐ終わるシンプルな御祈願系は早く燃やして天にあげてしまったほうが届きやすい。

精神的なものも早く燃やしてしまったほうが良い。

離婚の危機・夫婦円満は2人分をくっつけて捻って一緒に燃やしてあげる。

今回唯一燃やさなかったのは慢性疾患系。

時間のかかる慢性的な病気に関しては毎日祈祷して目処がたってから燃やさないとなかなか良くならない。

上記いずれも般若心経で。

火は神の力。

滅する力。

そして天へ昇華する力。

火で燃やす意味を改めて考えた。

それで届きやすいものとそうでないものがある。

まだまだ勉強することは沢山あるな。

【法螺貝×阿夫利山×八海山×石鎚山】

【法螺貝×阿夫利山×八海山×石鎚山】

2019年7月14日

昨日はずぶ濡れになりながらいつもと

違うルートで大山を上がった。

何かのタイミングで法螺を立てると

法螺貝のきれいな音色が

遠くから聴こえてきた。

珍しいものだなと思いつつ

もう一度法螺貝で応えてみる。

とても綺麗な音なので上手な方だ。

そして吹き方からして

このお山ではなく外部の人っぽい。

お互い何度かやりとりして切り上げ

足早に先を急いだら

途中でその法螺貝の主と運良く遭遇し

声をかけられた

「あ、さっき吹いてた方ですよね?」

聞けば単身で近くに滞在中で、

練習場所を探しているという。

八海山の山開きでも法螺貝要員として

参戦したとかで、

千本檜小屋の話しでちょっと盛り上がる。

こちらの身の上話をしたら

星野先達の名も出てきた。

新潟がホームだそうだが、

法螺貝の流派は石鎚のほうとのこと。

山伏ではないという。

今度石鎚に法螺の段を取りに行く予定らしい。

これがまた不思議なことに前日は師匠のもとで

初めて石鎚のお経をあげたばかりだったんだよな。

権現様と天狗様にぐるりと囲まれながら

石鎚山に思いを馳せていた矢先のこの出逢い。

その場でお互い吹っこして別れる。

この日、

なんとなく山ノ神の跡地に行こうとしなければ

イレギュラールートは通らず、

鉢合わせすることはなかった。

不思議なご縁だなと思いつつ、

初めて山中での法螺吹き仲間ができたのでした。

雨で幻想的な風景が広がるお山での一幕。