【夏越の大祓】
今日は風も吹き荒れ
申し分ないのではないでしょうか。
お榊の帰りに立ち寄った土地神様で
おもむろに大祓詞あげてきました。
そらであげられるようになると
なにかと不自由がなくなる。
一体になれば自然と口から出てくるからね。
海の向こうでは
新型インフルが発生したと
騒ぎ出したようなので
コロナウイルス感染症詐欺の
第二波の準備が始まって
いるのかもしれません。
しかしそんな心配するよりは、
自分の免疫を整えることを
真剣に考えてください。
そっちの本質の方がよほど大事。
これはコロナ云々の枝葉の問題でなく、
ひとつの生命として大事な問題です。
私たちが真剣に受け止め考えるべきは
生命を頂いてつむぐ
自分の生命と向き合うことであり、
嘘の科学や医学に群がる
詐欺師たちの言葉ではありません。
くだらないマスコミの洗脳報道の雑念も
大海原に飛ばしていただきましょう。
滝の音でも聴いて
祓い給へ、ほれ_(┐「ε:)_ザーッとな。
https://www.instagram.com/s/aGlnaGxpZ2h0OjE3ODQ0Njg1NDg3MTU3MTU1?igshid=uenogxmn0pvv&story_media_id=2305995404084568693
「多国籍企業は、たねをお金儲けの道具のように扱っている」と訴える、環境活動家ヴァンダナ・シヴァさんへのインタビュー。
— 読み進める kokocara.pal-system.co.jp/2015/02/09/seed-vandana-shiva/
身体は心を現す。
色んな身体と向き合って
色んなことを気付かされるこの頃。
今月はひたすら目の前の身体と向き合う時間を
沢山頂いている。
身体と対話すると
病の本質、
治療の本質、
を語りかけてくる。
そしてこれらに気付いてくると
“治せない病はない”というよりは
そもそも”病って消し去るものなのかな?”と
疑問が浮かんでくる。
「政治」、「治安」や「治水」などの言葉があるように「治」は本来「おさめる」ことを意味する。
乱れをなおす。筋道を正す。
さんずいは流れる水を象徴し
鍬を大地に入れるのが
「治」という字の成り立ち。
だから「おさめる」というのが
本来の意味になる。
支配するわけでもなく
制覇するわけでもなく
勝つわけでもなく
整えて正すのが正しいニュアンス。
これが治療の本質であり、
病は「なくせる」ものではなく
「おさめる」ものであると気付く。
マウントしようとする時点で
それは恐れに負けていることになり
おさめることができなくなる。
なぜなら恐怖は過度な緊張とストレスを生み
免疫力をさげるからだ。
病には未病の段階があるように
諸行無常の変遷の中で
身体の中において
常に病は現れては消えを繰り返している。
仮に消せたとしてもまた生じる。
仮に排他できたとしても
また侵入してくる。
そういう自然現象を考えると
やるべきことは
正しく整えて「治める」
のがベストだと気付く。
つまり治療とは癒して治めることになる。
反対に取り乱すことは治療とは程遠く、
逆にマイナスに働く。
乳がんステージ4の方や
強皮症など厄介な患者から
学ぶことは多い。
特殊な治療をこらさなくても
心さえきちんと鎮めて”治め”れば
「この1週間とても楽でした」
という状態になる。
心を鎮めれば
自律神経も整い
免疫力も上がってくる。
そんなに難しい話ではなく、
難しくしているのは人間なのだ。
先月末から祓いの毎日で忙しい。
どちらかといえば
不安をふり”祓う”ほうが正直大変。
「病は気から」
これは気を乱せば病むことを
あらわしている。
身体から病と治療の本質を学ぶと
いま必要なことがなにかは
おのずとわかってくる。
今日も祈りをこめて◯
3.11を目前にしてのコロナに対する
過剰な慌てふためきように
がっかりしてるのは言うまでもありません。
3.11の前だったから余計に
なのだろうか。
別に期待してるつもりもないのだけと
とてもガッカリした感は隠せない。
なるようにしかならないのに。
しかし肩を落としてる間も無く
そんな混沌とした最中から
難病や癌ステージ4の方の担当になり
身体は治りたいと言ってるのに
心はそうじゃない現象に気づき
しきりに言葉を投げ続けること2回。
やりたいこと、
生き甲斐、
使命、
希望、
これが見つからないまま過ごすことほど
生き地獄もないかもしれない、
としみじみ感じているこの2週間。
「前回、初めてなのに脈をみただけで
なんで身体より心の問題ってわかったんですか?」
と言われて少しホッとした一昨日。
そっか、どうやら本人も自覚はあるらしい。
なんでって、、、
だって顔に描いてあるもんなぁ。
「患者の声を聞け」とはよく言われるけど本当は
「身体の声」と「心の声」の両方を
聞かなきゃいけないことを今回教わった。
身体は治りたいって語りかけてくるのに
心は治りたくないかもって言ってるんだもの。
なんかかみ合ってなくない?
と凄く不思議な感じがした。
こんなこともあるんだな。
声は一つじゃないんだよ。
時には病が心の逃げ道の場合もある。
だから仮に万病を治せる力を得られたとしても
何でもかんでも治せばいいわけでもない。
治すことで希望が断たれることも
十分あり得るのだ。
でも治りたい自分も隅っこに隠れていて
ちらちらこっちを見てくる。
誰だって根源的な生への執着があるからな。
なかなか難しい問題だ。
心身一如、
身体の治療、
心の治療、
この2つのバランスが
とても重要なんだなと改めて感じている。
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何が幸せで何が不幸か
これは単純な物差しでは
測りきれないもの。
何もなくしてこなかったのに
いつのまにか大事なものを見失っている
人もいれば、
何かを失って大事なものに気づいた人もいる。
そこに共通する問題はシンプルで
今ここに在ることがどれだけ有難いことか、
そこに気付いているかいないか
それだけだと思う。
感謝が意味するのはそこだ。
これまで生きてくるにあたって
受けてきた恩を
返せているか。
「もう十分だ」
と言う人ほどなかなか死ねないのは
高齢者をみてるとよくわかる。
神様は意外とそこら辺は厳しく
そんな簡単に終わりにさせてはくれない、
とここ数年色んな方の人生をみていて
感じている。
思い残すことがないように
120%で生きてる人や
初めから完成された人の方が
(ピンピン)コロリを実現できている。
おおよそ今世にいる人間は
なにかしら課題があるから
いまここに生かされている。
そこから逃げる事は
そう簡単にはできないし、
させてくれないのが現実。
その現実を認識した時、
いくつかの結末を想定した時にやはり
迎え撃つほうが楽なんじゃないかなぁと…
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身体も終わりたがっていたら
そういう方針で寄り添うのだけど、
そうじゃない場合は
なかなかそうもいかない。
人は自分の身体を「自分のもの」と
勘違いしがちだが、
自律神経が示すように
人間如きの意思では
思い通りにいかない代物である。
身体は魂の容れ物=器であり、
授かりものだ。
天からの借り物である。
人間如きが天にはなかなか逆らえない
ということ。
身体の意向に人間は逆らえないものなのだ。
そこを理解した上で
どうしよっか。
と選択肢を考えないと
道は開けてこない。
そしてそれは
「わたし」という存在と
「身体」が対話して初めてなされることかなと思う。
自身と身体の声との対話、
そのお手伝いをすることが
治療家やセラピストの存在意義なんだろうな。
この半月で急に新しい流れに変わってきた。
光を一緒に探す作業、
これが次のステージの課題らしい。
山岳信仰の里の行者&鍼灸師です。科学と信仰の統合を。