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【病×平癒×泡雪】

祝詞辞典に目を通していたら
出羽三山神社からの出典が多数の著書だった件。

その中でも病気平癒祈願の一節が
心に響きました。

「…悩む病を春の泡雪の消ゆるが如く迅く速けく癒し給ひ…」

病が春の泡雪が消えるように速くなくなってくれと、、、なんとも雪国らしい表現が憎い。

しかし現代病の慢性疾患は
そんな簡単に消えるものではないのが現実。

「慢性」と呼ばれるように日々の食事や習慣からのプーファや毒物摂取による積み重ねが大きな要因をしめる。

積み重ねによる病気は
その逆の積み重ねでしか癒えない。

治癒や健康も日々の積み重ねです。

そして体質改善の目安は最低100日。
(百日でスタートラインに立てる、という意味あい)

実践によりもたらされる変化、
そしてその習慣化、定着化、
定着化した変化の季節変動の中での 
融和の確認など、

これらを踏まえても
四半期の約90日+αは
一番理にかなってるのではないかなと
感じるこの頃です。

【痛みとは福音なり】

患者さんとの会話の中で「痛み」の
話が出てきて少しディスカッションしていました。

痛みとは本来的には
身体に何かあることをお知らせする
「シグナル」です。

身体に異常があるのに
痛みがなければ何もわからず
そのまま放置して活動してれば
身体は崩壊する一方です。

そうさせないための”アラート”が痛みです。

身体は基本的に生命を維持するために、
つまりは”形態形成”を維持するために
修復へ向かいます。

エネルギーはそのために使われます。

外敵が侵入した場合も 
維持するために反応した結果が
高熱や炎症としてあらわれます。

自己免疫疾患や癌も維持しようと
身体ががんばり過ぎた結果です。

身体は常に戻そうと働きます。
そのために別の手段や回路を使おうとする。
そういう構造になっているのです。

そのことにちゃんと人間が気付いて
ケアしてあげないから
病態へひたすら傾く。

痛みは”アラート”であり、
そのお知らせに気付いたら
対応しなければいけません。

その点を勘違いすると 
とんでもないことになりかねません。

なんでもかんでも鎮痛剤で消そうとすると
痛みをムシすることになるので
悲惨な結末を迎えます。

フィールドを整えさえすれば
よほどの末期でなければ
病気は必ず治ると信じて病みません。

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アベシの潰瘍性大腸炎も
途中で辞めるほどのものではないと
いうのが最初の率直な感想でした。

完全な同情集めと言い訳でしょう。
そしてそれは見事に結果をだしている(┐「ε:)

まぁ不健全な金に汚いオジサン集団にいたら
治るものも治らないのは当然ではあります。

不健全は字のあらわす通り不健康なのですから。

もし本当に病気であるならば、
その点ではまだ彼には良心の呵責はあるのかも、
という見方もできなくはありません。

根っこから腐ってる政治家は
心が痛むなど皆無なのでストレスで
潰瘍性大腸炎になって辞めたりは
絶対ないでしょうからね。

麻生某などはストレスで
潰瘍性大腸炎には絶対に
なりそうもないでしょ(┐ε:)

【身体×心×声】

3.11を目前にしてのコロナに対する

過剰な慌てふためきように

がっかりしてるのは言うまでもありません。

3.11の前だったから余計に

なのだろうか。

別に期待してるつもりもないのだけと

とてもガッカリした感は隠せない。

なるようにしかならないのに。

しかし肩を落としてる間も無く

そんな混沌とした最中から

難病や癌ステージ4の方の担当になり

身体は治りたいと言ってるのに

心はそうじゃない現象に気づき

しきりに言葉を投げ続けること2回。

やりたいこと、

生き甲斐、

使命、

希望、

これが見つからないまま過ごすことほど

生き地獄もないかもしれない、

としみじみ感じているこの2週間。

「前回、初めてなのに脈をみただけで

なんで身体より心の問題ってわかったんですか?」

と言われて少しホッとした一昨日。

そっか、どうやら本人も自覚はあるらしい。

なんでって、、、

だって顔に描いてあるもんなぁ。

「患者の声を聞け」とはよく言われるけど本当は

「身体の声」と「心の声」の両方を

聞かなきゃいけないことを今回教わった。

身体は治りたいって語りかけてくるのに

心は治りたくないかもって言ってるんだもの。

なんかかみ合ってなくない?

と凄く不思議な感じがした。

こんなこともあるんだな。

声は一つじゃないんだよ。

時には病が心の逃げ道の場合もある。

だから仮に万病を治せる力を得られたとしても

何でもかんでも治せばいいわけでもない。

治すことで希望が断たれることも

十分あり得るのだ。

でも治りたい自分も隅っこに隠れていて

ちらちらこっちを見てくる。

誰だって根源的な生への執着があるからな。

なかなか難しい問題だ。

心身一如、

身体の治療、

心の治療、

この2つのバランスが

とても重要なんだなと改めて感じている。

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何が幸せで何が不幸か

これは単純な物差しでは

測りきれないもの。

何もなくしてこなかったのに

いつのまにか大事なものを見失っている

人もいれば、

何かを失って大事なものに気づいた人もいる。

そこに共通する問題はシンプルで

今ここに在ることがどれだけ有難いことか、

そこに気付いているかいないか

それだけだと思う。

感謝が意味するのはそこだ。

これまで生きてくるにあたって

受けてきた恩を

返せているか。

「もう十分だ」

と言う人ほどなかなか死ねないのは

高齢者をみてるとよくわかる。

神様は意外とそこら辺は厳しく

そんな簡単に終わりにさせてはくれない、

とここ数年色んな方の人生をみていて

感じている。

思い残すことがないように

120%で生きてる人や

初めから完成された人の方が

(ピンピン)コロリを実現できている。

おおよそ今世にいる人間は

なにかしら課題があるから

いまここに生かされている。

そこから逃げる事は

そう簡単にはできないし、

させてくれないのが現実。

その現実を認識した時、

いくつかの結末を想定した時にやはり

迎え撃つほうが楽なんじゃないかなぁと…

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身体も終わりたがっていたら

そういう方針で寄り添うのだけど、

そうじゃない場合は

なかなかそうもいかない。

人は自分の身体を「自分のもの」と

勘違いしがちだが、

自律神経が示すように

人間如きの意思では

思い通りにいかない代物である。

身体は魂の容れ物=器であり、

授かりものだ。

天からの借り物である。

人間如きが天にはなかなか逆らえない

ということ。

身体の意向に人間は逆らえないものなのだ。

そこを理解した上で

どうしよっか。

と選択肢を考えないと

道は開けてこない。

そしてそれは

「わたし」という存在と

「身体」が対話して初めてなされることかなと思う。

自身と身体の声との対話、

そのお手伝いをすることが

治療家やセラピストの存在意義なんだろうな。

この半月で急に新しい流れに変わってきた。

光を一緒に探す作業、

これが次のステージの課題らしい。