スタート 11:30
山頂12:15
もみじ台で休憩
下山 13:20
明日から一週間福島巡業なので迷ったが、山修行前の調整が必要と思い遅めの今季3回目地下足袋登山。夏に高尾山のぼるとかありえないと思っていたけど、上に行けば気持ち涼しい感じもした。こんな暑いのに相変わらず山頂は人が多い。。。夏だからこそのもみじ台ちゃやでのなめこ汁。百日潔斎でネギがダメだったのを忘れていて、避けながらたべる。
もみじ台の藪道にはまだ紫陽花が咲いていた。
登る前はいつもふもとの飯綱大権現様にご挨拶していくが、1ヶ月空いてしまった身体だけど、お参りするとスッと身体に山の気が入ってすぐいける状態に身体が変わってしまうから不思議です。
再来週は金峰山だ。
連休ですね〜いかがお過ごしでしょうか。
普段忙しい方はぜひリフレッシュするついでにもう一度自分の目標や方向性を見直してみてはいかがでしょうか。GWはタイミング的にも絶好のよい機会だと思います。
さてさてわたくしの自らを省みると、、、3月12日から始まった般若心経50巻の修行が思い出の大半を占めていて、色々よい体験や思い出もたくさんあったのですが、お経をあげてた記憶しか印象に残っていません、汗
般若心経を毎日50巻あげはじめて早53日目。
時には尽きることのない
自らの困ったちゃん煩悩だったり
時には誰かのご供養だったり
時には何かが見えたり
時にはいつの間にか寝ていたり
その日その時で刻々と意味合いが変わるのですが
50巻行が始まってからペースが加速してます。
毎日正味2時間も拝んでいれば
頭がスッキリするのは必然。
と、同時に
これぐらいやらないとオレってダメなんだなと
思い知らされるこの頃。
そのぶん色んな気づきや発見があるので
楽しいのがまだ救いですけど。
これが最近の一種の瞑想、禅行のような感じになってます。
蝋燭による祓いのあとは蝋燭が様々な形を織りなす。芸術です。
そこにあいまって時たま見える映像にはお不動様の宝剣だったり、妙見菩薩の五芒星だったり、、、
いやー普通の人がみたら気持ち悪い写真ですよね〜
メルマガ「煩悩行者の修行三昧」はこちらから
わたしは体質的に人から悪いものを貰いやすい、受けやすいのですが、
3年前に修行が始まってからは更にそれが顕著になりました。
相手から悪いものをとる
そういう修行なのです。
施術をやった1日の終わりには身祓いをしっかりやり、施術をする日もまた朝にバケツで水をかぶって禊を必ず行います。
自分自身に対してはそんな感じで意識して約一年が経つのですが、先日あることに気づいてしまいました。
般若心経のかかれた手拭いがものすごく吸っている、、、
洗濯しようと思って触った瞬間思わず手を離してしまうほど強いものが手拭いに。
これって手拭いに助けられてるってことなんですよね。有難いことです。
被災地や被災者の想いというのはわたしが師匠のもとで経験した限りでは祝詞による祓いはつかいません。仏様のお経によってあがっていただきます。
だからこの手拭いの場合もお経なのかな?
とふと思い師匠に確認したところ、、、
「塩に浸けてから洗いなさい」
ということでした。
なるほど!!
何かの参考になれば幸いです。
修行の中でオカジと呼ばれる施術の行があります。
文字通りで加持祈祷の”加持”をさしています。
整体の仕事を始めたのは、修行のなかで先生や先輩方がオカジをして悪いものをとっており、その修行を私もすることになったからなのですが、、、
「触らなくていいのよ。そこは本質じゃないの。しなくてもとれちゃうの。でも揉んであげたほうがやってもらった感があるでしょ。手当っていう言葉もあるでしょ」
着いた先日、こんなことを師匠にサラリと言われ、
「えっ!?」
と正直一瞬なったのは記憶に新しい。
それまでも「触らなくてもとれる」というのは話に出てきていたけど、
「本質じゃないから」と言われドキッとした。
なんか自分すごい施術にこだわってこの一年がんばってきたのにっっ。
まぁ整体は整体で必要な場合があるから精進するほかないけども、少しベクトルがズレていたかなとちょっと反省するこの頃です。
そんな中、昨日は調子の悪い師匠の様子見に空き時間に伺いました。
修行仲間とその娘さんがいて、娘さんに「高校はでておけ」という話をしてもらいに来ていたらしく、一緒にその話に加わって夜になってしまいお暇することに。
ホントは施術したかったのになぁ〜、、、
と思ったけど来た時の驚くほどの顔のむくみ様から一変して、帰る時はかなりもとの顔に戻っていた。
そのことを先輩にラインで報告すると
「オカジありがとう」
いや、だからやれなかったんだけどなぁと思った直後にはっと気づく。
「触るのが本質じゃないもんね」
ちゃんととったってことなのだろう。
触らずにとる。
今日はそういう修行だったようです。
山岳信仰の里の行者&鍼灸師です。科学と信仰の統合を。