「ぼやき日記」カテゴリーアーカイブ

伝えても伝わらないでしょ

先日たまたまこのシーンを見てたんですが、小野さんのもどかしさがドッと伝わってきて

胸が苦しくなりました。

(まぁファンなんだけど、笑)
「伝えたら、伝わるんでしょうか?」

たぶんほとんど伝わらないでしょ。

情報だけじゃその人の腹に落とし込まれないから、はっきりいって無理だと思う。私自身も歯がゆい気持ちがあるのですけど。

以下、Fbでの投稿になります。
==============
足蹴に通って地道に現地で取材してる人がいるのも知ってるし、
真摯に取り組んでいるメディア関係者だっておそらく沢山いる。
福島の問題って2つあるなと思って
◆1つは「情報が真実とそのまま信じる人が増えたこと」
手軽に情報が何でもとれる時代になり、体験を身体に落とし込まないで鵜呑みにしてしまう人が増えたこと。
ある分野では「情報弱者から抜け出そう」そんなフレーズが飛び交いますが、現状というのはまさにそんな感じで、情報に対して「本当なのか?」という確認のプロセスをせず、一歩先二歩先を想像すらしないで「事実」として安直に受け取ってしまっている気がします。
「事実」というのは本当は自ら実践や体感し、身体に刻み込まれたことをいうのであって、そうでない情報というのは結局「そういうことらしい」という想像の範囲でしかないわけです。
沢山の経験してる人に「実際どうなの?」と聞いて回った場合は段々事実として浮かび上がってくるものがありますが。
私が寒行をしたり、水に浸かっているのってそういうプロセスのひとつでもあるのです。

「やってみると、どうなるのか?」

やると必ず何か事実=真理のようなものが浮かび上がってくる。

昔から伝わってることには意味がありますから。
◆2つ目は排他的な感情。
「村八分」という言葉があるように日本にも差別の文化のようなものがある。
水俣病もその「排他性」が根っこにある公害問題の1つ。
不満があったり、心に余裕がない時、人は「敵」を作りたがる。排他的な感情っていうのは「自分を正当化したい」っていう裏返しでもあると思う。
いまニュースにもなってる避難者のいじめ問題も原発問題だから起きてるわけじゃない。

ちょうどいいネタとして「原発問題」が目の前にあらわれたから、それをダシに「排他的な感情」をぶちまけているにすぎない。

原発問題が起こらなければ、他のきっかけを探して同じことをやるのだと思う。
だから理解を求めてもおそらく根本解決にはいたらない。

排他的な感情の人たちの「心の乾き」を埋める何かが得られないと「私たちはまちがっていた」ということに気づくことは一生ない気もします。
原発自体にそれはそれで問題があるのですが

原発問題はあくまできっかけに過ぎなくて、

問題なのはそういう見方に陥ってる

我々自身にありますよね。

恵方巻きに一言!!

恵方巻きに思う、、、
バイトへのノルマでも話題にあがってますが
近所の東急ストアも

「こんなに買う人いるのか?」

てくらい恵方巻きがところせましと

アホみたいに売り場に並んでいる。
数年前はここまでなかったような。
なんだろう、
クリスマスとかバレンタインとか

そこら辺って彩りもよくバラエティがあるけど
恵方巻きは言ってしまえばただの
「ぶっとい黒い棒」なわけで、、、 続きを読む 恵方巻きに一言!!

魂のまにまに。。。羽黒山伏が思い出させてくれた原点

今日は山岳信仰つながりということで、
羽黒山伏の集いに参加してきました。

地元山形にある三大修験のひとつですが、
出羽三神は小さい頃からお世話になってるので、
冒頭の勤行は出羽山神を拝めてちょっと嬉しかった。
ちゃんと神様いらしてたので。

私の「神域」的な原風景は羽黒神社の並木参道なんだと改めて思いました。
中学くらいの頃、家族で羽黒神社へ行ったんです。

参道に入った瞬間に「うわぁっ」と飲み込まれた。
神様?迷信じゃん?と半信半疑なお年頃にも関わらず
「ここにはいる」
と直感的に感じさせられる、そんな雰囲気。

その空気感にのまれて何かに取り憑かれたように
親と妹を置いてスタスタひとりで駆け上っていった時の記憶が強く残ってます。

だから勤行の奏上中、ずっと意識は羽黒の参道を歩いていました。

というか1週間前からしょっちゅうそっちに意識が飛んでたびたび参道を歩いていました。

色んな流れの中のご縁で木曽御嶽山にお世話になっていますが、
なぜ神仏習合の山岳信仰に学んでいるのかというと

日本人らしさってなんだろう?

そういうことを考え始めた時に日本の信仰心に関心を持ったのがそもそもの始まりなんです。

そしてお爺ちゃん子だった私は、祖父の家の思い出が強く、
そこも小さな部落ですが、奥の山にお不動様が祀ってあって、
正月に雪深い山道を1時間ほど歩いて拝みにいったりしてた。

そういう部分に日本人の「根っこ」を感じていたから、
山岳信仰にたどり着き、そしてすんなりハマったのだと思います。

そういう原点のようなものを今日は思い起こしました。

===============
会場で星野先達が出版された本を買い、
電車の中で一気に読み通しました。

難しい言葉は一切ないので
身体にスッとそのまま入ってきます。

スッと入るけどかなり深い話が多い。

こういうわかりやすい伝えかたができないとなぁと勉強になりました。

日々に何か物足りなさを感じていたり

物事難しく考えすぎて行き詰まってる気がするかたはぜひ読んでみて下さい^ ^

久々にするりと入ってくる本を読みましたw

直感力を取り戻させる本です!!

「動かない」という選択もまた行動のひとつ

動かなければ何も始まらないが、
「動かないと不安で仕方ない病」はまたちょっと違う。  
臭いものにフタをする自分。
現実からの逃避。

 

そういう時こそ立ち止まって

「動かないという『行動』を選択する」
というのもまた立派な行動な気がする。
これが個人的には一番厳しく感じ

苦手な修行なんだと思う。
どちらかといえば動きたい派だから。
じっとしてるのは嫌い。
=======
「動かない」と何も起こらない。
それは違うと、数日前に気づいた。
「1日中道端にたたずむ岩と話しなさい」
仮にこういう禅行のような課題を与えられたとする。
ぱっと考えたとき

「1日何も起こらずムダに終わりそう」
そんなふうに考えてしまうけども

その岩を中心にストーリーを考えると
1日に色んなことが起きることが予想できる。
風が吹き抜け
ジリジリと太陽に焼き付けられ
猫が小便をかけてきて
何十人という人が通り過ぎる。
そんな岩とひたすら対話していれば、
当然色んな人と出会うかもしれないし、
変質者として通報され警察に職質されるかもしれないし
なぜかマダム受けのいい私の場合はマダムが「たくさんお食べなさい」と憐れんでくれてお弁当を差し入れでもらえるかもしれない。
自分が動かなくても

世界は回っているので
それを感じ取れさえすれば

受け入れさえすれば

溶け込めさえすれば

「縁」は発生するんだと思う。
動かない世界にしてしまっているのもまた

自分の観念なのだと思う。
===============
自分のダメさ弱さをを全てを認めて
受け入れてこそ初めて
他人の言葉も素直に受け入れられる。
相手の言葉に言葉で返して自分を主張したい時ってどこかに自分を「守ろう」とする自分が必ずいるわけで
そういう「守り」すら本当はいらない。
全てを受け止めるおおらかさを持った時に

世界はもっと動き出す。
自ずと動き出す。
そんなことを思い至った。
まだまだ修行が足りませんなぁ。