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輪廻をグルグル

グルグルグルグルグルコサミン♪

金剛界礼讃・胎蔵界礼讃をあげてからの光明真言。

オンアボギャベイロシャナウ〜…

先週からこの課題が出され取り組んでいるが、今までの般若心経などと違い終わったあともなんかスッキリしない。

終わったあともグルグルグルグル目が回ってる感じなんですね。

一昨日の寒行で師匠が「オンアボギャちゃんとやってる?」と尋ねてきたので

「金剛界・胎蔵界とあわせてやってますが、グルグル回るんですが!どうしましょう!」

と申したところ

「まぁ、輪廻に入りやすいからね」

とサラッと言われた。

そ、そういうことなのかこのグルグルはっ。

と納得して今週もグルグル回っていましたが、今日は相変わらずグルグルグルグル回っていると突然出羽三山に御坐す蜂子様がドーン!!と横から入ってきた。

いや、始めるまえからチラチラとこちらに繋がってくる感じがあったのだけど、しばらくしたらいきなりグイッと引き寄せられた。

あれ?なんでここで蜂子様が入ってくるわけ?

気づくとお堂で大きな蜂子様の前に正座してる。

そして蜂子様の足元にうごめく黒い影たちを「これで祓え」と言わんばかりにこちらの手を動かして描いたのは初めて見る祓い。

真ん中は大地から立ち昇る龍にも見える

それを境に相対する2つの点。

これひょっとして胎蔵界と金剛界なのかな、、、?

気になって師匠にラインで送ってみると二言だけ返ってきた。

「修行の成果が出てきましたね。良い祓いです。」

んーーーーーーーな、なんなの?良い祓いって!??

まだまだグルグルは続きそうです。

神さま報連相

暮れの山伏のひとりごとです、笑

神さまにお願いするのはいいけどなぁ

お願いする神さまが何の神さまかも知らないで

お願いしてもなぁ

吉野家でドヤ顔で「ピザ!!(╹◡╹)」とか言ってるようなもんだよなぁ。

そんな奴には百歩譲っても

お冷しか出てこないだろうなぁ。

社名も事業も知らずに

「御社に入社したいですp(・ω・)q」

とか言ってるようなもんだよなぁ。

「うちはいつでも募集してるから

いつでもエントリーしてね」

ってパンフレットと試供品でも渡されるんだろうなぁ。

たとえば軍神に恋愛成就祈願してもなぁ

「うむ、相手を叩きのめせばよいのじゃな」

っていうことでええんかいなぁ。

さらにお願いする相手を知りもしないどころか、

「どこそこの誰べいです」

それすらも名乗りもしないでお願いしても

神さまだって誰の願いなのか

わからなくなって当然だよなぁ。

意外とスカスカとスルーされてるんだろうなぁ。

子供だってサンタに名前と住所くらいは

伝えておねだりするのにねぇ。

一番大事なのは今年お願いした神様への

お礼参りだよなぁ。

本来神社は感謝をしに行く場なのに

それもしないで次のお願いしてもなぁ

神さまからしたら

「御宅の普段の人間関係って

それで成り立ってるの?」

って話になんだよなぁ。

願かけてその結果を報告しなきゃ

自分の願かけのPDCAにもならないしなぁ。

お礼参りって神さま報連相だと思うんだよなぁ。

お願いをしたら報告と感謝をする

これが願かけのサイクルなんだよなぁ。

そこから次の抱負や展望へ繋がると思うんだよなぁ。

そう考えると遠方の神社で願かけするのは

余程の覚悟じゃないと

あとが大変なんだよなぁ。

お礼参りまでするつもりがないなら

それは結局そんなに大したお願いじゃない

ってことなんだよなぁ。

継続は力なりって言うけど

一見さんよりは常連さんが優遇されるのは

どこでも一緒だと思うんだよなぁ。

神さまももとは人だったわけだしなぁ。

可能力って神さまPDCAの

サイクルの中に蓄積されてるんだと

思うんだよなぁ。

対照的なモノの中に本質は見える

陰中の陽、陽中の陰の丸ポチ。

これはお互いの中にも反対の性質は存在する、それくらいに思っていた。

でも実は「陰」よりも「陽中の陰」の丸ポチほうが如実に本質を表していて、大事なことがわかってきた。

お互いの間には対照力が働く。それぞれのエネルギーはこの対照力を理解することでよりスムーズに働く。

これをわかりやすく例えれば、

カレーライスとライスカレー。

カレーはライスの対照力があるからこそ美味いのであり、ライスもまた対照力のあるカレーがあるからその旨味を真に味わうことができる。

自分はラッキョウが食べたいがためにカレーを食べる時があるけど、それも同じことなのかもしれない。対照力を用いたほうがより本質は楽しめる。

そしてこれはいろんなことに言い換えられる。

制約があるからこそ、その中に自由があり、

自由だからこそ、そこに制約も生じる

愛するがゆえにその中に憎しみが生まれ

憎むのはそこに愛があるから。

本質はその対照力が働くものの中にある。

そのものに執着しすぎれば本質は見失われ、逆に対照となるもの中に本質は浮かんでくる。

対照力の理解は自由をもたらす。

自由自在とは「自らの在り方に縛られないこと」であり、これは言い換えれば「色々な在り方が出来る」ことでもある。(ここにも対照があり「縛られない」ことに拘ると縛られるんですね、これがまた…)

この在り方とは場所や職業や人間関係などそういう物質的な話に限ったものではなく、心の在り方でもある。

一見自由自そうに見えても何かに縛られている人は意外と多い。

片方だけに囚われるのではなく、

1.2つのバランスの中のどこに自分がいまいるのかを把握できる能力(問題の分解・解析能力)

2.そして必要に応じて往き来できる能力(すぐ戻ってこれる能力)

この二つを備えることが「自由=無」の境地。

これは身体の問題にも言えることであり、

心の問題にも言えること。

聖を求めようとするなら「聖」の中ではなく、「俗」の中にそれを求めよ。

「賢」を求めようとするなら「愚」の中にそれを求めよ。

「正」を求めるならば、「奇」の中にそれを求めよ。

ガンガンお彼岸!霊は巧妙…

修行者のお彼岸は「彼岸花きれい〜」なんて呑気に感傷に浸ってる場合ではないと、今秋のお彼岸に痛感してます。

秋のお彼岸って、夏の山修行やらお盆が終わりちょっと一息ついてまったりしかける頃に、そうはさせてくれないダラけ防止のような存在でもあるなと思うこの頃。

彼岸入りの前夜、職場で締め作業を終え雑談していると同僚が、大倉山の山の話をし始めた。

小さい頃から大倉山に住む彼女はよく山で遊んでいたらしいのだが、実は昔は自殺スポットだったらしい。

という話をきいて「あ、やっぱりそうなんだー納得!」と思わず納得する自分。

実は山にある大倉山記念ホールはここ数年、震災イベントや後輩のライブで訪ねたことが何度もあるのですが、毎回いくとすごくしんどく、頭が痛くなってました。震災イベントでは妙に亡くなった方へ意識がシンクロしてしまうので消耗が激しかったのですが、、、今なら理解できる。あの山に留まる方々も供養して欲しかったのだなぁと。そういうことならちょうどお彼岸だし、「ご供養させて頂きますよ」などと考えてはいたものの、霊は実に巧妙にこちらへ寄ってくる。

その夜その同僚から突然ラインが来た。内容は全く別件だけど、別れ際の話題に関しての報告ライン。でも今までラインやりとりしたこともなかったので、かなり驚き。

翌朝、起きてみると一昨日家で発見された3匹目のヤモリがカゴの中で水没して死んでいたという衝撃的な事件が発生。(水没死した方々かと思われた、そういえば最近、ありましたね)

彼岸入りの朝、さすがにこれはちょっと象徴的すぎる出来事。絶対何かが自分のもとへ来てるなと思いつつそのまま学校へ向かうと、、、

ザワザワザワザワ、、、

わちゃわちゃわちゃわちゃ、、、

頭の中が騒騒しい。いつの間にやら随分たくさんの方が飛来していて、あれやこれやまぁうるさい。

いろいろ気を巡らしていたら、「あ!そうか!」昨夜のラインで大倉山の方々がこちらへしっかりアクセスしてきたことに気づく。

見えない方々はこうやって人を動かして対応できる人(というか基本的には修行者なんだろう)のもとへ人伝いで近付いてくる。

なんとも巧妙だなと関心したのでした。実にうまくできてる。

今秋のお彼岸はご先祖様のみならず、ここへ集った御霊の皆様方も含めて一斉にご供養させて頂きます。