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箱根の御嶽大神

2018年2月24日(土)。

この前山の地図を眺めていたら箱根に御嶽の三神が祀られていることを知った。

場所は明星ヶ岳。

これは是非とも行かねばなるまいと思い行ってきました。

地図をみると塔ノ沢の登り口からしばらく歩いて山頂までに、八海山大頭羅神王、三笠山刀利天宮、そして御嶽大神とあったので塩とお酒3パックをしっかり準備して臨みました。ネットで調べてみると小さな石碑みたいだけど、念のための準備。ぬかりなし!!ところが案の定スタートからハプニングの連続(苦笑)

塔ノ沢駅から阿弥陀寺までいきなり2往復する羽目に、、、。なぜならお地蔵様にお水を捧げなければならなくなったからです。

箱根湯本から歩いて塔ノ沢駅に着いたら地下足袋に履き替え出発。看板に「深澤弁財天、火伏観音」と書いてあり、途中にあるかと思いきや見当たらず阿弥陀寺の入り口らしき門へ。しばらく進んであることに気づく。

あれ!?水を忘れた!!!

もう10分ほど登ってしまい、戻ろうか少し悩んだけど全くの水なしは流石にあり得ないと思い水を探しに駅まで戻ってみることに。

山の時に水を忘れるなんて普段はないことなので、「この流れって何かあるのかな??もしかしてさっき看板でみた火伏観音で必要なのかな?」そんなことを考えながら駅まで戻ると、途中の民家横の蛇口で水を出しっぱなしにしてるところがあり、空きペットボトルに300ml頂く。さらに駅まで戻ると自販機がちゃんとあったので500mlの水を購入。

さてまた戻ろうと出発すると、向かいの下りホームに先ほどの深澤弁財天と火伏観音を発見。ホームの奥だから見逃していました。

何かありそうだと思い足を運んでみた。

すると深澤弁財天の賽銭箱には例のあのマークがあった!そうです。九頭龍神社の白龍神社にもある波と三つ鱗の北条の紋様が。これはいい収穫。お宮の横には大きな数珠が捧げられている。神仏習合が色濃い。さらに境内は狭いながら奥社もあるらしい。

奥へ行く前に火伏観音が鎮座。面の仏像の横の本堂は修繕中なのか中がビニールが覆われていたのでこちらで拝みました。

さらに奥には弁財天の奥社。そしてその手前の看板には「瀬織津姫」と書かれていてびっくり。ここは瀬織津姫も祀られているらしい。しかしそれも納得、「火伏」の神様がいるだけにこの場所は清流がながれてる。奥社の奥の谷間のような斜面、恐らく昔は瀧だったんじゃないかなと推測される。瀬織津姫は多岐つ早川の瀬(瀧つ早川の背)にましますからね。そこから川で罪穢れを祓うわけです。

さて火伏観音には水が豊富にあったので「じゃあ水はどこで必要なのだろう?ひょっとして途中で見かけたお地蔵様がお水を欲しいのかな?」と考えながら阿弥陀寺の山門を通り過ぎてしばらくしてお地蔵様を通り過ぎてしまったことに気づく。

ああ、、しまった、、でも戻るとまた往復20分くるいかかるからなぁ、、、この目の前の仏様にお水あげようかな。

と頂いてきた水を全部かけて差し上げる。そしてさらに先へ向かおうとした時にあることに気づく。今度は手袋がない!!左ポケットに入れたはずの手袋がないことに気付いた。周りも見渡してもない。

「あれ、、、もしかして落としてきた??また逆戻り??ループに入っちゃった??すでに時間食っちゃったし、このまま行ってしまおうか。んーでも日が沈めば寒いから手袋もないわけにもいかないよなぁ、弁財天まで戻るかもしれないけど、、、手袋探しながら戻るか」

そう思い、再びもとの道を戻ること約10分。「やっぱり最初まで戻されるのかなぁ、、、」そう思ったときについにある場所で発見。

驚くことにお水が欲しそうと思ったお地蔵様の目の前でした。

これはもうそういうことだろうと思い、登山用の自分の飲み水を少し分けることにした。お水をかけて、般若心経を一巻。そして終わりに法螺貝。

「声に気付けずに大変申し訳ありませんでした。まだまだ修行不足でした、、、」

お地蔵様の足元をみると何か石のかけらが落ちてる。拾ってみると、そのお地蔵様の右手だった。「このお地蔵様、だれかの右手治したんだな」と察した。と同時に先週小指を手術した私の手もまた右手。痛みが消えた気がした。

もしかして自分の右手も治してくれたのかもしれない。阿弥陀寺の最初のお地蔵様を私は手無し地蔵と勝手に呼ぶことにした。

そこから少し行くとまたまた六地蔵と青面金剛像が。ここもお水欲しそうな空気だったので、さらに飲み水を少しずつお分けして、残り約250ml。まあ、約1000m程度の山だからなんとかなるでしょ。。。

さてこの阿弥陀寺、裏には昔の修行堂や籠り行の洞窟があったり、裏山の奥に磐座があったりとかなり見所満載でしたが、その反面結構荒れ果てた感じでした。あまり手が行き届いていない感じでした。途中ところどころにお墓を見かけましたが、それほど檀家さんがあまりいないようなので恐らく経営も厳しいのかもしれません。(後で観光協会のページ見たら、和宮様の信仰が厚くご位牌もあるお寺さんなんですね)まだまだ修行したいお坊さんの御霊が何人かいらっしゃった感じが。。。また改めてご供養に来たい。(そしてここは翌日の伏線になっていた)

登山道入り口は荒れ気味。

道に大黒様。上の御嶽大神の伏線(大国主様)だろうか。

倒木。激しい嵐が来たら完全に崩れそう。

磐座のような場所を抜け塔の峰へ出るとそこから尾根道。一度林道と合流してそこからが若干道がわかりづらい感じに。段々細くなっていき、、、明星ヶ岳の登山口へのルートを見失いそのまま斜面を突っ切ってしまいました(汗)ここは山へ入らず舗装された林道を道なりに進んだ方がいいかもしれません。

明星ヶ岳の山頂までは竹やぶに囲まれながら滑りやすい道でした。

藪道を抜けると開けて箱根が一望できます。

ここらまた勾配がきつめになってきます。息を切らしながら中ほどまで行くと八海山大頭羅神王を発見!!でもものすごく道のすぐ横に鎮座してるのでびっくり。道の脇というより道を半分塞いでる。横に倒木があるので道が変わってしまったのかもしれないですが、蹴られたりしないかちょっと心配です、、、。塩とお酒でお清めして天津祝詞、身曽岐太祓をあげさせて頂く。大祓祝詞もやりたかったところなのですが、道が細く足場も悪いので短めにしました。それでも踏ん張って中座していたら足がつりそうに。

少し進むと「あれっ!?」また左のポケットの手袋がないことに気付く。もしやさっきの八海山で、、、?と思いながら戻ったら、八海山の前に手袋が落ちてました。法螺貝奏上忘れてましたね。すみません。。。法螺貝奏上して再び上へ。

ここからさらに登って行くと三笠山刀利天宮が出現。山道からちょっと奥まったところに鎮座してされており八海山よりきちんとしている。

ここもお清めして拝ませていただきました。

三笠山からまたしばらく行くとやっと御嶽大神に到着。八海山、三笠山のようにこじんまりとした石碑だと思ったら、かなり立派な出で立ち。しかも下に祠があって御神体らしきものが。恐らく御嶽山から持ってきた石なのでしょう。その脇は白河大権現、天照皇大神宮、行者(覚明さん?)で固められている。

塩と酒でお清めして少し長めに拝ませて頂きました。最後はここの三神、そして向かいの箱根山の神々とがしっかり繋がってお守りいただくように、繋がりと循環の祈りをこめてひふみ祝詞も。

拝んでいたら丁度光が差し込んできていい具合に。オッケー!ってことで良いのかな。序盤に手無し地蔵の件があったからこそのタイミングによる光。最初から見事に仕組まれているなー。

石が置いてあることを知りこの場所はとても大事な場所な気がした。たぶんここでなにかを止めてる。さいきん甲斐国や相模国の里山に祀られてる神様を訪ねているけど、そういう神社や祠って地元の信仰厚い方や修行者がご縁のある神様を近くに置くためにお祀りしてる感じがするのですが、ここの箱根の御嶽はちょっと別格。箱根のなかでここに御嶽を置かないといけない事情があるような、そんな雰囲気。

向かいの箱根山までの間には強羅、そして噴火中の大涌谷がある。そしてあることを思い出した。2014年、はじめて御嶽山を登拝した翌月に御嶽山の噴火、そして年明けた1月下旬、師匠に「九頭龍の水が欲しい」と言われて箱根へ参拝して数日後に箱根の大涌谷が噴火したのでした。自分が訪れた場所が次々と噴火するので当時は恐ろしくなったものですが、御嶽山と箱根が強い繋がりがあることを今回の明星ヶ岳の登拝で確信。あれは意味があったんですね。

(ちなみに約半年後、ほとぼりが冷める頃と思い再び九頭龍を訪ねて3日後くらいに警戒レベルが3に引き上げになってしまいました。もうショック。。)

ここでのこり100ml程度の最後の水を飲み干して下山。ここからが一気に下になっていてまた意外ときつかった。雪解けで滑りやすく、コケました。でも見晴らしのいい場所もあり、強羅に向かって法螺貝。強羅は独特の地形に見えましたが、なんか気が溜まりやすそうな感じがしました。上に大涌谷があるし。だから向かいに御嶽なのかなぁと。

無事下山後にまた事件がひとつ。バス停に到着して地下足袋を履き替え、豆を頬張ってる最中にバスが来てしまいそのまま飛び乗りました。

このバス、ほぼ満員で立つしかなかったのですがなんか気が悪すぎたんですね。暖房機器過ぎなのもあったんだけどなんか気がした悪い。おまけに先ほどの豆で胃がびっくりしちゃってる。クネクネ峠道で渋滞。汗がダラダラと止まらなくなり完全にのぼせと酔いで死にそうになりました。

手に豆を持ちながら手すりにつかまっていたのですが、豆の袋の口が開いていたらしく、手を持ち替えた瞬間バラバラバラーっと豆とアーモンドを車内にぶちまけてしまいました。打ち豆?邪気祓い?やっぱりなんかいるの?

恥ずかしながらも笑ってしまった。

終点3つ手前くらいで後ろのおじさんが「運転手さん暑いんですけどー?」と申告してくれてようやく冷房が入った。

下車してから胃を休めようと蕎麦屋へ。あんみつを頼むもフルーツ食べても吐きそうになり、川辺へ。しばらく抜けるのを待ちながら明星ヶ岳方面をみるとでっかい龍雲が!!

ここのアングルはいつも龍が出るんですが、こんなに太いのは初めて。なんとなくおじいちゃんの顔にも見えた。

このあと少しすっきりしたので電車に乗ってみたけどやはり気持ち悪くて一駅で下車。これは抜けきるまで時間がかかると思い小田原まで歩きで帰って、完全に抜けました。まだまだ修行が足りません。

出羽三山供養塔〜七国峠・大日様のお山を歩く

昨年に引き続き高尾山で法螺貝を練習しようと横浜線で向かっている道中。

相原駅で停車中に向こうに見える小高い山を眺めていたら、「ん?あの山何かありそうだな」とピーンと来てGoogle マップを開く。

学生の頃から使ってる駅なので何十回と通過してるはずだけど、昨日はなぜか何かありそうな気がした。

そしたら出羽三山供養塔と書いてあるではないですか。そしてその隣に大日像と書いてある。どうやら昔信仰されてたお山らしい。

これは行ってみるしかない!!と思い、高尾山で用を済ませてから相原に戻り探索開始。

相原駅から北へ向かい、造形大近くの峠道の入り口から入ってみました。

比較的整備されている道ですが、雨降るとぬかるんで大変そうです。

途中何組か親子連れとすれ違ったので、地元の方はハイキングや散歩によく使うようです。

30分ほどひたすら歩くとありました、供養塔が。Y字路の分かれ目の木の前にどどんと。なんでこの位置にこの向きなのかが謎ですが、、、

刻まれた文字が薄くてほとんど読めないのですが、側面には「天保十年」とあるので天保の大飢饉から三年後に建てられたものらしい。

下のほうには「村役人」と書いてあるので、当時の役職者の名前が。

湯殿山が真ん中に置かれている。

現在は三山の配置が異なりますが、かつては湯殿山が大日如来をあらわすとされ真ん中に配置されていた時代もありました。

これを見てすぐ近くの大日如来像まで行ってみようと思い、一度この場をあとにする。

15分ほど歩くと大日如来像の場所へ到着。ちょうど日が差す広場のようになっていて大日に相応しい場所。ベンチもあっておじいさんが日向ぼっこしていました。

ここの大日様、廃れた里山の神仏はボロボロだと相場が決まっているものですが、とてもきれいに管理されていてちょっと驚きでした。

横の注釈には明治時代の一村一宮の制度でほかの神社に移動させられたけど、疫病が流行りだし、若い衆が心配してもとのこの場所に戻したら次第に疫病が治っていたという、比較的最近の逸話が書かれている。記憶に新しい大日様だから未だに地元の方々に大切にされているんですね。なんかだかとても感激。

般若心経と光明真言をあげ、法螺貝を奏上。

再び出羽三山供養塔へ戻り、こちらでも般若心経と法螺貝を奏上。供養塔と書いてあるからその選択だったのだけど、あとから調べてみるとどうも供養塔というのは遥拝所を指すらしい。三語拝詞でよかったかなとあとで後悔。また来る機会があったらその時は、、、。

日本三大修験といわれ全国で信仰されていた出羽三山なのでこんなところに供養塔があっても不思議はないのですが、自分がかつてお世話になっていた地域に出羽三山信仰者がいたと思うとなにか感慨深いものはあります。

ともあれ無事に出羽三山供養塔の探索は終了。

学生時代から馴染みのある地域にこんな大日様があるとはつゆ知らず、とてもよい勉強になりました。

感謝。

与瀬神社から陣馬山へ

2017年12月23日。

今週は相模湖まで足を伸ばし、与瀬神社〜明王峠〜堂所山〜〜明王峠〜陣馬山〜与瀬神社というルートで法螺貝携えて山を歩いてきました。

まず与瀬神社。ここはかなり穴場です。古くより民間信仰によって建立されたらしいこの神社は与瀬大権現が祀られ、境内の手前には隋神門が。神社の手前には金峰山慈眼寺があるなど神仏習合、修験道を感じさせるステキな神社でした。

一の鳥居をくぐると歩道橋で中央道を渡って境内へ入る変わった作り(実は昔から中央道通る時にこの神社とお寺が気になっていた)これも参道が分断されてしまっているんだなとちょっと悲しくなりました。裏高尾に続き、なんだかこの界隈の山の傷を見せられているようです。

社務所も誰もいない雰囲気。

慈眼寺の門と並ぶ木の鳥居はかなり古めかしく歴史を感じさせます。(表札も「与瀬◯神社」と書いてありきになる)

しばらくいくと愛宕神社を彷彿させるいきなり急な階段。「これ、修験道の匂いがするなぁ」と思いながら登ると隋神門がある。これって権現様のお宮だよね。

日本武尊が御祭神。そういえばこの日は23日、今上天皇の生誕日。

ここで天津祝詞と法螺貝を奏上する。神様の前だと下手ながらに一応最後まで法螺貝を鳴らせるから不思議なものです。

境内はかなり広く摂社末社がいくつかあった。(それぞれが何なのかわからないものもいくつかあった)

この石穴に祀られている神様だけ他より特別な感じ。幸の神。

お宮に向かって左手に陣馬山、明王峠行きの登山道がある。

登るといきなり岩場の道が急勾配に。ここから一気にあがっていきます。少し上がればすぐ相模湖が見渡せます。

登りが終わると平坦な林道がひたすら続く。

終盤に分かれ道があり矢の音峠へ向かう道はかなりの急勾配。そこをひたすら登ると少し開けた場所に。

林道を抜け車道に合流すると、また急勾配になり明王峠はすぐそこに。

明王峠には茶屋がありますが、この日は営業していなかったようです。茶屋の裏手にお不動様が祀られています。戦国時代に戦勝祈願で武田不動明王をお祀りしたようです。

ここから堂所山へ向かってみる。30分ほどで着いたけど、特別見晴らしがいいという感じではなかった。ここも武田軍が鐘つき堂を建てた跡地らしい。

休憩していたおじさんに「それ法螺貝ですか?修験ですか?」と声をかけられた。

堂所山から明王峠に戻り、さらに陣馬山まで足を伸ばしてみる。約2.5km。ここも40分くらいだったろうか。着くと陣馬高原からは龍が舞い降りる富士山が見えました。

茶屋のいい感じのおじいちゃんに「ありゃあ、たいした法螺貝だなぁ」と声をかけられた。修験をやってたどこかのおじいさんのお下がりですからね。年季が入ってるのは見てもわかるのだろう。

ここら高尾行きのバス停へ降りるか迷ったけど、与瀬神社で締めくくりたいと思い、もときた道を戻る。

最後は富士山方面から伸びる放射状の雲。

今回の与瀬神社からのルートはなかなか良い感じでした。ここの山自体がかなり切り立った形なので下に相模湖を眺めるその景色は伊豆半島の様な、海と山が一体になったような山岳信仰を連想させるものです。高尾山周辺は武田や北条所以の言い伝えが目立ちますが、八王城址の深沢山は913年に華厳菩薩妙行が牛頭天王と八人の王子を感得したりと古くから修行に入った山々が連なるようなのでもっと探せば修験道の名残が見つかりそうです。

相模湖周辺のお山、掘り下げていきたいです。

高尾山と比べて感じた違いは別記所感にて。

山伏的感覚からみる高尾エリアの所感

土曜日は高尾駅で中央線を降りて、ふと向かいの中央本線松本行きに反射的に飛び乗ってしまった。

そして相模湖の与瀬神社から孫山へ入り明王峠を目指した。

相模湖駅で電車を降りた瞬間ふっと余計なものが抜けて軽くなったのを感じた。この感覚は高尾山通いしてる今月にはなかった感覚だった。でもこれが本来のお山の感覚。

山に入ればその気は身体にすっと入り込んでくる。それを全身に循環させれば山を登っても疲れることはほとんどない。

この感覚が戻ってきたことで、高尾山での妙な違和感は確信へと変わって行った。

やはりお山の力が弱いんじゃないだろうか??

それはやはり山が汚れているからにほかならない。

2014年に御嶽山で起きた噴火。あの年が実は初めて御嶽山を登拝した年だった。

そして翌年以降の山修行と比べてよく思い返してみると、あの年の御嶽山は見た目からして汚れていた。ゴミがいっぱい落ちていた。

「大切なお山なので、ゴミを見つけたら拾おうね。ごみ袋持ってきてね。」

という案内通り、下山時は沢山ゴミを拾った記憶がある。信仰者からすればあってはならい状態だった。

そして汚されたお山は噴火した。ゴミという観点から見てもあの噴火は致し方のないことだと感じた。私たち人間が招いたようなものである。

高尾山はミシュランで有名になり、観光客が激増してから明らかに汚されていった。それ以前との比較は、もともと八王子在住の学生だった私にとってははっきりとわかるもの。

そこから交通緩和のためにお山に大きな穴を開けてしまった。山岳信仰は山自体が御神体なのだから、そんなことを本当にするのか信じられなかった。しかし容赦なく土手っ腹に風穴を開けてしまった。

交通緩和は見事に果たされ、その功績を考えれば今後の生態系の観察は必要かもしれないが工事はそんなに悪いものではないのではという意見もある。

一方で工事によって高尾山各所の湧き水の出が悪くなったなどの報告もある。(個人的にはそれが現状どうなってるのかを知りたいのですが)

自然界、生態系の変化は長期的に見なければわからないのかもしれない。それは複雑な循環・連鎖であることもそうだし、そもそも自然というより野生は逞しい。思いっきり削られたそのお山にはトンビも沢山飛んでるし、猿もいっぱい遊んでるし、木々や植物もたくましく生きている。

それでも私たちのような人間からすればすでに大きな欠落が感じられる。何かが根本的に欠けてしまっている。本来のお山ではない。

さきほど出羽山伏の大先達に暮れの挨拶メールで、お礼とともにこの高尾山の違和感をぶつけてみた。そしたら「その通りだよ、あそこはもう混ざるものがない」という答えが返ってきた。

納得いくと同時に混ざるものがないという言葉が頭に響き自然と涙が出てきて止まらなくなってしまった。15分くらい泣いていた。何となく感じ続けてきたものが言葉で肯定されなんとも言えない哀しみが込み上げてきた。

実はこの哀しみは自分の場合はもっと遡ることができる。山形の母の実家で似たような哀しみを経験していた。

祖父母の家は里山の部落農村。自然あふれるこじんまりとした里山で山奥にお不動様がいて三が日に雪道の中お参りにいっていた。いわば私の山岳信仰の原点がここになる。

ところが小学生くらいのころにこの地域に高速道路が建設され、道路が左右を囲む山を横に突っ切ってしまった。

この時、子供ながらに何とも言えない哀しみを心の底で感じてきた記憶がはっきりとある。

親や祖父母には何も言わなかったと思うけど心が痛んでいたことは覚えている。

その哀しみと高尾山があわさって涙が出てきたのだろう。

亡くなった命は二度と戻らないかけがえのないものだ。

それと同時に自然も破壊すればかけがえのないものを失うことになる。

このお山の欠落してしまったものが時間が経てば戻るものとはあまり考えられない。(生態系の回復、再構築で変わるのかもしれないけど)

そんなわけで山伏の感覚からすれば高尾山は大きなものを失ってしまった、と断言しておきます。

このことに対してどうしたらいいのか、何ができるのかは自分のこれからの課題かもしれません。

この「ほかの山と高尾山の感覚の違い」が気になる方は、ぜひ一緒に山を登りましょう。