くまモンー

個人的には今こそ、
この連休中こそ
くまモンは全国行脚していくのがいいんじゃないかと思ってます。

自粛してる場合ではない。

観光客呼び込む仕掛けをいまから作っていかないと。
できるところからできる人が役割果たしていくしかないと思うのです。こういう大規模災害は。

くまモンの役割ってそこでしょ?
もちろん、中の方のご事情もあると思いますが。。。

チェルノブイリ30周年に思うこと

本日4月26日でチェルノブイリは事故から30周年を迎える(“周年”という響きがお祝いぽくて違和感あるけど

)。
チェルノブイリと福島はどちらが大変なの?

放射能はどちらが多かったの?
報告会やらで時折この質問、議論を投げかけてくる方がおります。
比較しようと調べてみても学者によって考え方の基準が異なるようで、いまいちわかりづらいところですが
・放射能の感受性には個体差があること

(健康、不健康は同じ条件下でも個人によって色々違ってくるのが現実なので放射能に関しても厳密なことは言えないと思う。)
・外部・内部被曝を極力避け、被曝量をコントロールする努力はできること

(現に福島ではそうやって乗り切ってきた)
などを考慮して考えると、
チェルノブイリと福島を比較して

「どっちがひどいのか」

という問いは正直ナンセンスだと思っています。

管理・回収不可能な大量の放射性物質が飛散したという事実は変わらないので。
被曝のリスクは皆にあるし、

それをある程度は回避することも

意識次第でできる。
現状として決定的な違いは

「事故後の状況をコントロールできているか」
チェルノブイリは1986年4月26日に事故が起き、その年の11月には石棺によって封じ込めることに成功しました。

とりあえず蓋をすることはできたわけです。
一方の福島第一原発は変な立地条件に建てたために未だに汚染水をガンガン汲み上げるハメになり、タンクがひたすら増えていく一方。

何も目処が立っていない。
最近では

「完全な処理をしていない汚染水を海に流してしまおう( ´ ▽ ` )」

そんなことも検討されてるとかいないとか。
どちらが状況的によろしくないのかというのは一目瞭然ですよね。

 約半年で封じ込め作戦に成功したチェルノブイリと、5年経過してもまだ垂れ流しの福島第一原発。
九州の震災で川内原発などが騒がれていますが、福島の原発が収束していない中それも当然のこと。
==============

一方で事故当時の環境条件で考えてみると日本はチェルノブイリに比べまだ恵まれています。
流通も発達している、食べ物も沢山ある、

情報も沢山拡散・取得できた
一応先進国ゆえに自己防衛する手段がある程度確保することが可能だったのは、せめてもの救いです。
チェルノブイリは政府が黙っていたし、当時はSNSなんてなかったし、田舎の村は食べ物も現地にあるものを食べるのが基本なので一般人は自己防衛のしようがありませんでした。
いまでも「放射能の影響と思われる」病気に悩む人たちが沢山いるのは、やはり日本ほど豊かではないからです。
日本はやはりお金も技術もあるから

まだ今のような状況で済んでいる

そう思います。
==============
一般人は無事収束することを願うことしかできませんが、早く状況が好転して欲しいものです。
#チェルノブイリ

#Chernobyl

#原発

#Ukraine

「売名行為」と批判する人

今回の震災で芸能人をはじめとした行動起こした人達に対しての批判がずいぶん目立ちました。

「売名行為だ」

「偽善だ」

こういう批判をしてる方々っておそらく何もしていない人です。

というかたぶん何も行動できない人。

自律して能動的に被災地へ携わることのできないフラストレーションをぶちまけているんじゃないでしょうか。

だって同じように被災地のために何かしようと行動してる人はそんな批判する必要がないですからね。

被災地をとりまく状況に思うこと

熊本をはじめとした九州での震災が起こってから、SNSを眺めていて

「荒れてるなー」

「言ってること一貫してしないなー」

「明らかに動揺してるよなー」

「震災に揺さぶられてるよなー」

と傍観しています。

現在の自分の状況ではできることが限られてくるのもあるのですが、

震災の規模感をトータルで考えてみるに

もうちょっと冷静になるべきじゃないかなと。別に中枢機能が麻痺してるわけではありませんからね。東日本大震災とはちょっとちがうと思うのですよ。
確かに被害はたいへんですし、大変な生活をしいられてる方々には早く日常がもどることを祈るばかりなのですが、当事者じゃない人たちの反応に違和感を感じてます。

被災者のためというより、

自分の中の枯渇した部分を潤すために動いてるように見えてしまうのです。

実際冷静に考えてみて、思い当たる方も結構いらっしゃるんじゃないでしょうか。
私自身もそういう面もあったので。

以下、facebookに投稿した記事です。

色々考え方はあると思いますけど、過剰反応し過ぎな気もしてます、、、

================

何かがうまくいっていない時は必ずどこかに見て見ぬふりをしている

臭いものに蓋をしている部分がある。
自分の身の回りがきれいに循環していない。
そういう状態で

「熊本の人たちを助けたい」

と足を突っ込んでも

はたから見てると支離滅裂な言動にしか見えない
人を助けたい

支え合いたい
とても大切なことですが、
こういう緊急時に湧いてくる感情の根底は

実際にどこにあるのか。
純粋な気持ちなのか

免罪符なのか

自分の滞りに対する逃げ道なのか
被災地の感情の渦に自分から飛び込んで

どっぷり浸かってしまうのは

「寄り添い」とは違う気がする。

「同情」でもない気がする。
3.11から何を学んだのか。
この数日を眺めてると

人間ってなかなか変われないものだなと

改めて気づかされています。
一番問わなきゃいけないのは

自分の心の持ち方

気持ちの整理の仕方
そこじゃないかなって気がしてます。
不動心。

確固たる自分。
そこができないと

「支え」にはなれない。
支えてるつもりで結局支えられてる。
「人」という字は

支えあってできているので

それはそれでいいとは思うのですが。
気持ちが落ち着いてなければ

本当の意味での被災地への気遣いとか

できてない気もするんですよね。
当事者じゃないのに災害を受けて

グラグラと自分が揺らいでるのは

いかがなものかと。
物資云々よりそれが一番

迷惑な話だと思います。
外野からはなんとでも言えますから。
#循環

#熊本

山岳信仰の里の行者&鍼灸師です。科学と信仰の統合を。