新年ということで、松陰先生の妹千代宛の手紙に書かれた新年の教えを以下ご紹介させて頂きます。
妹千代宛-安政二年正月元旦(吉田松陰全集、大和書房より)
弟妹の為に新年の祝儀申し候。善く聞き候べし。
先づ新年御目出度う御座ります。宜い御年を召しましたろう。扠(さ)て新年とは、にひなとしと云ふ事ぞ。にひなとは新(にい)な着物、新たな道具等にて考へて見よ、垢も付かず、傷もない立派なものを云ふぞ。
着物や道具の新なは分かりたが、年がにひなと云ふでは、ちつと不分かりではないか。そして又其のにひなが目出度いとは、尚更不分かりではないか。
分からずば申さう。年も古びると垢も付くてや、傷も付くてや、夫れでにひなとしが御目出度いてや。凡そ人といふものは気持ちが難しいもので、節季師走になると成ると、えい今年は今わづかぢや、破れこぶれぢや、来年からこそおのれといふではないか。
夫れが年のあかつき、傷付いた所ぢや。
扠て一夜明けると気がしゃんとして、心からにひなになるものぢや。そこで新年御目出度いではないか。
しかし右の講釈で新年の譯(やく)は分かつたが、まだ御目出度いのが分かるまい。目出度いといふがいったい難しい事ぢやてや。目と云ふは目玉の事ではない、目玉共が元日から出たら、ろくな事ではあるまい。目と云ふは木の芽、草の芽の事ぢやわい。木草の芽は冬至からして、一日一日の陽気(はるのき)が生ずるにしたがうて、草も木も萌え出づるなり。この陽気と云ふものは物をそだつる気にて、人の仁愛慈悲の心と同様にて、天地にとりても人間にとりてもこのましき気なり。
故に陽気が生じて、草も木もめでたいと思ふが御目出度いなり。夫れで新年の御目出度いも分かるではないか。前にも申す通り、一夜明けると人の気がしやんとして、破れ気もきたな心ま皆洗ひ揚げて、人の本心なる仁氣慈悲の心も出てくる事、てうど草木の芽の出ると同じことではなきか。夫れ故新年御目出度うござります。…(以下略)
いかがでしょうか。
妹宛の手紙はどこか微笑ましいものがあるんですよね。