動かなければ何も始まらないが、
「動かないと不安で仕方ない病」はまたちょっと違う。
臭いものにフタをする自分。
現実からの逃避。
そういう時こそ立ち止まって
「動かないという『行動』を選択する」
というのもまた立派な行動な気がする。
これが個人的には一番厳しく感じ
苦手な修行なんだと思う。
どちらかといえば動きたい派だから。
じっとしてるのは嫌い。
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「動かない」と何も起こらない。
それは違うと、数日前に気づいた。
「1日中道端にたたずむ岩と話しなさい」
仮にこういう禅行のような課題を与えられたとする。
ぱっと考えたとき
「1日何も起こらずムダに終わりそう」
そんなふうに考えてしまうけども
その岩を中心にストーリーを考えると
1日に色んなことが起きることが予想できる。
風が吹き抜け
ジリジリと太陽に焼き付けられ
猫が小便をかけてきて
何十人という人が通り過ぎる。
そんな岩とひたすら対話していれば、
当然色んな人と出会うかもしれないし、
変質者として通報され警察に職質されるかもしれないし
なぜかマダム受けのいい私の場合はマダムが「たくさんお食べなさい」と憐れんでくれてお弁当を差し入れでもらえるかもしれない。
自分が動かなくても
世界は回っているので
それを感じ取れさえすれば
受け入れさえすれば
溶け込めさえすれば
「縁」は発生するんだと思う。
動かない世界にしてしまっているのもまた
自分の観念なのだと思う。
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自分のダメさ弱さをを全てを認めて
受け入れてこそ初めて
他人の言葉も素直に受け入れられる。
相手の言葉に言葉で返して自分を主張したい時ってどこかに自分を「守ろう」とする自分が必ずいるわけで
そういう「守り」すら本当はいらない。
全てを受け止めるおおらかさを持った時に
世界はもっと動き出す。
自ずと動き出す。
そんなことを思い至った。
まだまだ修行が足りませんなぁ。
ほ、ほ、ホータル来い!
こっちのみーずはあーまいぞ
あっちのみーずはにーがいぞ
こんばんはセンシです。
なぜいきなりこんな出だしかというと、
私が施術させていただいている方が
ちょっと心配になってるからです。
FacebookなどのSNSってやはり女の子はちやほやされるじゃないですか。
その子はちやほやしてくれる大人たちのほうへ流されてしまうのです。
「すごいね!」
「大丈夫、そのままでいいんだよ!」
なぜSNSで癒しをもとめる大人たちは安直に甘い言葉を投げかけていい人間を演じ、前途ある若者の進むべき道を惑わすのか。
彼女の現在抱えてる問題を、本質をとらえずに安直な発信をするのか。
彼女のコンサルをやってる方ともよく会うので、最近の彼女のことをよく話すのですが、
やはり心配なんですよね。
彼女はメンタル的にやられてしまい先日会社を辞めました。
「適応障害」という病名をいただいたことに安心してしまい、それを公表しながら好きなことだけやろうとしていますが、
まだ自立もできていない。
そんな彼女を見抜けない大人たちは安直に
「すごいね!」
「そのままで大丈夫だよ!」
と声をかけるのですよね。
トランプより無責任だなと、正直思います。
トランプ氏の発言ってそんなに重要ではないと思うんですよね。
舵の切り方で影響がいろいろ出るのは間違いないけど、それもあくまで一局面の話であって全てではない。
そこに一喜一憂右往左往する人は自分がいかに狭い限定的な世界でしかものを見てないか考え直したほうがいいんじゃないのか。
なんてことを感じます。
そんなことより「どうしたら自分より頭の堅そうなこの人のしつこいコリを外せるのか」を考えたほうがよっぽど世界に貢献できる、
はず笑
コナン君ばりに真実は1つかもしれないが物事は切り取り方で見え方が多様に変わってくる。
チェルノブイリを訪ねた時に感じた違和感は
「溢れる大自然」と「生活感」。
メデイアで受ける印象とのギャップが激しすぎた。
今は荒れ果てたゴーストタウン、、、
そこには青々とした木々が生い茂り
そこでは労働者が談笑しながら
飯を食い
酒を飲み
生活するために働いている。
そこには「悲愴感」というものが
特別あるわけではない。
飯は美味いし
給料もいい
人によっては楽園のようなもの。
ただ日々を淡々と送っている。
と、突然意識が向こうに飛びふと思った。
切り取り方でいかようにも見える^ ^
んー、そうなんだよね。
#チェルノブイリゾーンでの飯
#ヴァレニキ
山岳信仰の里の行者&鍼灸師です。科学と信仰の統合を。