「ぼやき日記」カテゴリーアーカイブ

【コロたん×功を奏す×抗ストレス社会】

よそはお休みになったらしいですが、

淡々と施術所を続行するのがやはりうち。

まぁ患者さんも

変に引きこもって気滞になるよりも

毎週お灸や鍼受けてたほうが

正直、感染率も低くなると個人的には思っています。

鍼灸は免疫はあがるからね。

これはエビデンスがある話。

先週は高齢者に対しては

自然とお灸いれる日が多かった。

少しでも免疫上がればなと思い。

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さてさて施術所の患者さんで

のぼせと不眠が主訴の方がいます。

職場のストレス(仕事ができない上司が諸悪の根源)がなかなかの割合を占めており

毎日の飲酒と

飲み過ぎのコーヒーを

少しずつ控えるように説得しながら

ストレスを吐き出させていく

という形で中医学で治療中のお方。

昨日は脈を診ておや?と思い

コロたんの話を振ってみたところ

昨日から在宅勤務になったそうで、

ものすごく快適そうでした。

「仕事がはかどるか心配だったけど

思いの外充実してます」

無用な声をかけられず

自分の仕事に集中できるし、

憎らしい上司の顔を見る必要もない。

何より通勤のストレスがなくなり

生活に余裕ができる。

(なんかすごくいい感じじゃん!)

皮肉なことにコロたんの余波が

功を奏しているケース。

治療担当者としてもこの状況は

ありがたい。

自分も5年前に気付いたが

首都圏在住者の仕事のストレスの中で

「通勤」が占める割合は

5割を超えているケースがほとんどだと思う。

「仕事のストレス」と思い自覚がないが

多くは「通勤」が原因。

それが一時的に削られ

明らかに心身に良い影響を与えている

のが今回のケース。

不要不急な出勤は控える働き方が

このまま普及することを

切に願います。

我々のような出向くしかない職種にとっても

通勤電車に余裕が出るのは

快適以外のなにものでもなく

今が丁度いいバランスなんじゃないかな。

無駄なストレス負荷をかけて

効率もパフォーマンスも落としている

首都圏の状況、

変わって欲しいなぁと思います。

治療が絶対やりやすくなるんだよ、笑

【コロたん×お粗末×イヤミ】

先週からの一山超えて
ちょっと一息ついたのでボヤきます。

昨日「一斉休校」のニュースを知って
政府はサジを投げたんだなと
個人的には思いました。

あまりに現実味がない唐突な話。
この人たち本気で馬鹿なのかな…
と誰もが思ったことでしょう。

面倒くさくなって丸投げしたとしか思えない
配慮がみられない愚作。

こうなる前になぜ初期段階で隔離対策を
きちんとやらなかったのか。

今週になって自分界隈の周りも
凄い騒ぎ始めていますが、
そもそもそれも反応が遅すぎる。

正直いまさら遅い。
気にするならもっと早い段階にしないと。

ベースになってるコロナウイルスは
いわゆるふつうの風邪のウイルス。

ただの風邪やインフルエンザをこれまで徹底的に防ぐことがあったか?
防ぐことができたか?

という現実問題と照らし合わせて考えると
今あたふたやってることや不安は
すべて滑稽過ぎる。

なる時はなる、
手洗いうがいをきちんとして予防する、
それが今回のコロナウイルスという存在。
おそらく新型もそこは変わらない。

これが仮に人為的なものだとしたら
ずいぶん上手く作ったのものだなと
正直関心する。

特別なものじゃなく
ごくありふれたものにすることで
防壁をすりぬける。

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しかし日本人の動きを観察していると
情報社会にいるはずの日本人は
悲しいことに情弱の極みにあるとしか思えない。

一斉休校や外出自粛要請の報道が出た途端、
今日のスーパーは近所でも
トイレットペーパーが売り切れ
なぜかポテトチップスもほぼ売り切れ。

トイレットペーパーって…
いつの話なんでしょう⤵︎

外出控えるから週末ポテトチップスって…
免疫高めておく必要があるのに
ジャンク食べまくってどうするのか。
マスク気にするなら砂糖も控えようよ。

日本人は何やってんだろうなぁ
とアホくさくなっています。

大陸ではコロたんによる肺炎罹患者のための
漢方処方が出されたそうです。

なんやかんやで凄い国なんですよあそこは。
色んな意味で、やる時はやる。
歴史が断絶されて民度の低い国なんて馬鹿にしてる日本人の方がよっぽどです。
大陸を馬鹿にしてる日本人は王朝関係なく 何千年と実は受け継がれてるものが大陸にはあることを知らない。

電車は空いていて快適。
在宅でできる仕事は
この際極力在宅にしてしまって欲しい。
そうはいかない我々のような職種のためにも。

まぁしかし、
世界的な経済打撃の拡がりみると
正直作為的なものしか感じませんな…

ほんと阿呆らしい。

【苦に甘んじる症候群×智慧×視点】

最近「苦しい」「辛い」とばかり呟きながら祈祷してる方のSNSが気になっていたら、

「苦しみ」というのが周りと色々リンクしてきたので苦しみについて考えてみた。

「苦に甘んじる症候群」が存在する。

かつては自分もそうだったなと思いつつ。。。

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だいぶ前に師に

「苦行をすれば修行があがると思うのは大きな間違い」

と言われたことを思い出した。

修行は厳しいことも沢山あるが

苦しさを求めるものではない。

それはお釈迦様がすでに実践して

無意味だと答えを出している。

その意味を考えてみた。

苦は自ら求めるべきでないものだとして、

では避けられない境遇の場合はどうなのか?

仕方ないのだろうか?

回避するための手段を

全て試してみたのだろうか?

根本的な原因を見つけられているのだろうか?

苦に耐えるというのは

一見「やった感」が出てくる。

耐えているんだから自分を褒められる。

「耐える」というのは悲劇のヒロイン思考に陥っていないかに注意したほうがいい。

そしてその耐えている状況を冷静にみたときに

「思考の放棄」をしていないか?

ということに着目したい。

苦行はやった感、満足感が得られるから

その先を考えなくなりがちだ。

痛めつければアドレナリンもガンガンでるから

生理的にみても尚更そういう傾向に陥りやすい。

人間の脳は楽なほうにいきたがる。

思考しやすいほうに流される。

そういったことを踏まえて考えたときに

苦行というのはあまり建設的ではないことに

気付く。

悟りであったり中庸であったり

エネルギーが空の状態であったり

理想がそういうところである以上、

苦行で苦が続いているうちは

それは目的を達成されていないことになる。

苦から解放されなければ

成就とはいえない。

しかし困ったことに「やった感」だけは

得られてしまう。

お釈迦様が苦行をやめたのは

結局そこのように思う。

悟れないのに「オレはやったぜ感」「満足感」を得てしまえば道を見失う。

そして仮に苦行の先で答えが何も見つからなかった場合、いったい誰が幸せになれるのだろうか?

という問題もある。

むしろ周りを不幸にする。

自分が幸せでなければ

他の誰をも幸せにはできない。

犠牲の上に成り立つ幸せも世の中にはあるかもしれないが、犠牲になった人はその中の喜びや幸せを知っているから犠牲になったのであって、寧ろ犠牲とは思っていないだろう。

もし本人が犠牲になったと感じていたら、

それがわかってしまった時点で

結局相手も十字架を背負うので

幸せになることは難しい。

自分の中に幸せがなければ

誰も幸せにはできない。

苦行の成れの果ては

不幸のデススパイラル。

苦を楽に変える方法を考えること

苦を楽に変える視点を持つことが

日々の暮らしの中では

一番大切なことじゃないのだろうか。

苦を楽に変える視点と智慧を備えていないと

人は最終的に悪の道に陥りやすい。

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人間は色眼鏡で世界を見てしまう。

そう思い込む。

むしろ思い込みたい癖がある。

しかし物事は多面的であり人によって見え方は様々あるもの。

自分の常識は勝手な思い込みくらいに考えていたほうが、相手の気持ちを考えるにはちょうどいい。

例えば自分の場合、

こういうことをやっていると

苦行をしているように見られがちだけど

それは大きな勘違い。

入り口はたしかに苦行なのだが、

一度やれば

やった分だけ何かが返ってくると

わかってくるから、体感しているから

楽しみだからやっている。

実はただそれだけだったりする。

楽しみがなければ人間は続けられない。

それは紛れもない事実。

「苦楽」という言い方がされるように

苦と楽は陰陽のようにセットになっているもので

単一のものではない。

苦の中の楽

楽の中の苦

その関係性を捉えたときに

「苦しい」というのはその中の

「楽しみ」がまだ見つけられていない

だけなんだと思う。

言い換えれば「楽しみ方」だろうか。

世の中にはそれに対処できる

やり方や術というのが必ずあり、

それを学んだり創意工夫するのが

人間の生きるという使命の全うでもある。

「一生勉強」とはそういうことを意味する。

小手先や上辺だけの知識や技術ではなく、

生きぬける力、ものの見方、考え方を

学ぶことが必要だ。

そういう学びを自分の生活に活かすことで

新たな気づきや楽しみが見つかってくる。

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苦行によって今の苦しみから脱しようとするのは

悲劇のヒロイン思考であって、

そこに解決の糸口は見つからない。

(仮に見つかった時はすでに苦が楽に転換した時だ)

痛めつけることでハイにはなれるかもしれないが

それは対処療法でしかない。

それを意図的にやっているならまだしも

しらずしらずに、

無意識的にやってるケースが

意外とあるもんだよなぁと恐くなった。

ただ耐える、というのは

頑張っているようでいて実は

やるべきことを頑張れていない

可能性が潜んでいる。

やるべきことは

解決できる智慧を借りること

視点を変えること。

生きづらさを作っているのは

誰のせいでもなく自分。

自分を変えれば

周りは変わり

世界も変わる。

年始の独り言〜参拝で大事なこと

神さまにお願いするのはいいけどなぁ 

お願いする神さまが何の神さまかも知らないで
お願いしてもなぁ

吉野家でドヤ顔で「ピザ!!(╹◡╹)」とか言ってるようなもんだよなぁ。 

そんな奴には百歩譲っても
お冷しか出てこないだろうなぁ。 

社名も事業も知らずに
「御社に入社したいですp(・ω・)q」
とか言ってるようなもんだよなぁ。 

「うちはいつでも募集してるから
いつでもエントリーしてね」
ってパンフレットと試供品でも渡されるんだろうなぁ。 

たとえば軍神に恋愛成就祈願してもなぁ
「うむ、相手を叩きのめせばよいのじゃな」
っていうことでええんかいなぁ。 

さらにお願いする相手を知りもしないどころか、 

「どこそこの誰べいです」
それすらも名乗りもしないでお願いしても
神さまだって誰の願いなのか
わからなくなって当然だよなぁ。
意外とスカスカとスルーされてるんだろうなぁ。 

子供だってサンタに名前と住所くらいは
伝えておねだりするのにねぇ。 

一番大事なのは今年お願いした神様への
お礼参り
だよなぁ。
本来神社は感謝をしに行く場なのに
それもしないで次のお願いしてもなぁ 

神さまからしたら
「御宅の普段の人間関係って
それで成り立ってるの?」
って話になんだよなぁ。 

願かけてその結果を報告しなきゃ
自分の願かけのPDCAにもならないしなぁ。 

お礼参りって神さま報連相だと思うんだよなぁ。 

お願いをしたら報告と感謝をする
これが願かけのサイクルなんだよなぁ。
そこから次の抱負や展望へ繋がると思うんだよなぁ。 

そう考えると遠方の神社で願かけするのは
余程の覚悟じゃないと
あとが大変なんだよなぁ。 

お礼参りまでするつもりがないなら
それは結局そんなに大したお願いじゃない
ってことなんだよなぁ。 

継続は力なりって言うけど
一見さんよりは常連さんが優遇されるのは
どこでも一緒だと思うんだよなぁ。
神さまももとは人だったわけだしなぁ。 

可能力って神さまPDCAの
サイクルの中に蓄積されてるんだと
思うんだよなぁ。