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幻想に気付かず幻想にさらに逃げ込む大人たち

そもそもの根本的な本質的な

感染症とは結局なんなのか

免疫とはいったい何なのか

その大前提をすっぽかして

“新しい生活様式”やら

“これからの時代”やら

仕組みの話にばかりとらわれているのが

マジで呆れ果てる。

土台が脆ければそんな妄想は

簡単に崩れ去るのに、

大の大人たちがいったい

何をやってるのだろう。

そういうのを”現実逃避”

っていうの知らんの?_(:3 」∠)_

“生きる”という基本のキを知らない、

これが現代人なのだなぁと

噛み締めています。

小手先の現代医学に逃げるのは

提供者側の画策はもちろんあるが、

つまるところは現代人が

生きることで生じる「四苦」から

とにかく目を背けたい

とにかく逃げ出したい

そういう弱い心なんだなと

気付いた昨夜。

医学という観点からみると

特にこの戦後70年ほどは

ある意味「現実逃避」して続けてきた、

そしてその集大成が珍型コロナで起きてる

珍喜劇のように思えて仕方ありません。

幻想に逃げ続けてきた

いまの現代人の在り様をみると

昔から般若心経で「空」が説かれてきたのも

ものすごく腑に落ちる。

昔からこういうことは何度も

起こったんだろうね。

まず「受け給う」

〜まず「受け給う」〜

出羽三山の山伏修行では「受け給う」が全て。

その言葉を発してから全ての所作が始まる。

自然の力はいつも偉大であり、時には理不尽でもある。

こちらに選択権も拒否権もない。

全て受け給う以外に選択肢はない。

大自然へ身を置いて修行するというのは

おそらくそういう意味もある。

全ては天から与えられたものである以上、

受け給うことが天と一致することでもあり、

それが善を積むということにつながる。

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同じところをグルグル廻ってる人は

「受け取れない」。

というより「受け止めない」

受け止めないから受け取れない。

誰かからの言葉も受け取れないし

ふとした気付きも受け取れない。

受け取る構えがないから

天からのサインも受け取れない。

たがらα1からスタートしてα1へ戻ることの繰り返しになる。

受け給うとα1から循環しつつ

たどり着くスタート地点はα2へレベルアップする。

螺旋の循環にのっていく。

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受け止められないのは文字通りの「空」

つまりスペース=余裕がないからで

そのためにはやはり不要なものを

何かしら手離すしかないんじゃないかと思う。

その手離すものは果たして何なのだろう?

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手離すとは切り捨てるイメージを持つかもしれないが、実は許容することでもあると思う。

例えば、認めたくない自分があるとする。

認めたくない自分とは赦せない自分である。

「そうあるべき自分」である。

どちらも味わうのが「空」だが、

片一方に囚われたのが「そうあるべき自分」。

そして「そうあるべき」とさせているのは自分であり、周りは実はあなたに対して「こうあるべき」とはたいして思っちゃいないし、期待していない。

「べき論」はあなたの激しいひとり妄想に過ぎない。自分一人で勝手に自分に期待をしているに過ぎない。

「べきではない論」もまた同じことである。

本当は「こうあるべきではない」のではなく、「それもまたひとつの自分」と許容すればいい。

マイナス1の自分を認めればそれに対立する

プラス1の自分も存在し得ることになる。

理想的なプラス1の自分が手に入らないのは

マイナス1の自分を赦せていないからである。

限りなく攻撃的な自分がいるのは別におかしいことではなく、そいつが存在するならその真反対には限りなく優しい自分もいるはずなのである。

全てが自分であり、全てが存在して一つの自分である。

どれかに囚われるのではなく、その狭間で味わっているのが本当の自分なのだと思う。

その狭間でしずかに観察しているのが自分なのだと思う。すなわち「空」なんだと思う。

今ある自分を受け給う。

そしてこれまでの自分も受け給う。

現在と過去が受け給へれば、

未来も受け給へる。

自分を受け給へなければ、他人だって当然受け給受へない。

般若心経はたしかに否定することで肯定をしている。

しかしそもそも全てを一度「受け給う」ことができなければ、何も始めることができないし何も起こりようがない。変わりようがない。

自分を「受け給う」ことが全ての始まりなんじゃなかろうか。

人よりやってやっとこ人並み

連休ですね〜いかがお過ごしでしょうか。

普段忙しい方はぜひリフレッシュするついでにもう一度自分の目標や方向性を見直してみてはいかがでしょうか。GWはタイミング的にも絶好のよい機会だと思います。
さてさてわたくしの自らを省みると、、、3月12日から始まった般若心経50巻の修行が思い出の大半を占めていて、色々よい体験や思い出もたくさんあったのですが、お経をあげてた記憶しか印象に残っていません、汗
般若心経を毎日50巻あげはじめて早53日目。
時には尽きることのない

自らの困ったちゃん煩悩だったり

時には誰かのご供養だったり

時には何かが見えたり

時にはいつの間にか寝ていたり

その日その時で刻々と意味合いが変わるのですが
50巻行が始まってからペースが加速してます。
毎日正味2時間も拝んでいれば

頭がスッキリするのは必然。
と、同時に

これぐらいやらないとオレってダメなんだなと

思い知らされるこの頃。
そのぶん色んな気づきや発見があるので

楽しいのがまだ救いですけど。
これが最近の一種の瞑想、禅行のような感じになってます。
蝋燭による祓いのあとは蝋燭が様々な形を織りなす。芸術です。

そこにあいまって時たま見える映像にはお不動様の宝剣だったり、妙見菩薩の五芒星だったり、、、
いやー普通の人がみたら気持ち悪い写真ですよね〜

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