【佛僊神道 成仙への原理(329)】大司命節「大司命祭文 奉読の仕方」 | 自然福智 獲得への道
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対照的なモノの中に本質は見える
陰中の陽、陽中の陰の丸ポチ。
これはお互いの中にも反対の性質は存在する、それくらいに思っていた。
でも実は「陰」よりも「陽中の陰」の丸ポチほうが如実に本質を表していて、大事なことがわかってきた。
お互いの間には対照力が働く。それぞれのエネルギーはこの対照力を理解することでよりスムーズに働く。
これをわかりやすく例えれば、
カレーライスとライスカレー。
カレーはライスの対照力があるからこそ美味いのであり、ライスもまた対照力のあるカレーがあるからその旨味を真に味わうことができる。
自分はラッキョウが食べたいがためにカレーを食べる時があるけど、それも同じことなのかもしれない。対照力を用いたほうがより本質は楽しめる。
そしてこれはいろんなことに言い換えられる。
制約があるからこそ、その中に自由があり、
自由だからこそ、そこに制約も生じる
愛するがゆえにその中に憎しみが生まれ
憎むのはそこに愛があるから。
本質はその対照力が働くものの中にある。
そのものに執着しすぎれば本質は見失われ、逆に対照となるもの中に本質は浮かんでくる。
対照力の理解は自由をもたらす。
自由自在とは「自らの在り方に縛られないこと」であり、これは言い換えれば「色々な在り方が出来る」ことでもある。(ここにも対照があり「縛られない」ことに拘ると縛られるんですね、これがまた…)
この在り方とは場所や職業や人間関係などそういう物質的な話に限ったものではなく、心の在り方でもある。
一見自由自そうに見えても何かに縛られている人は意外と多い。
片方だけに囚われるのではなく、
1.2つのバランスの中のどこに自分がいまいるのかを把握できる能力(問題の分解・解析能力)
2.そして必要に応じて往き来できる能力(すぐ戻ってこれる能力)
この二つを備えることが「自由=無」の境地。
これは身体の問題にも言えることであり、
心の問題にも言えること。
聖を求めようとするなら「聖」の中ではなく、「俗」の中にそれを求めよ。
「賢」を求めようとするなら「愚」の中にそれを求めよ。
「正」を求めるならば、「奇」の中にそれを求めよ。