「供養」カテゴリーアーカイブ

送り盆

先週末は新盆でした。

新盆は東京(お江戸)にいる人たちがお盆になると田舎へ帰ってしまうためにひと月前にお盆を行いご先祖様をお迎えするもの。

生まれ育ちは母の実家の山形、

父の実家は川崎の私は、

7月と8月の2回お盆を迎えます。

なんだか妙に忙しいのですよね。

お盆はご先祖様はもちろん、

よそのお御霊もわさわさするので

なーんか落ち着かない。

先日新盆前に師匠のところへいったら

「お盆は地獄の蓋も開くのよ。知ってる?だから忙しいの」

と大施餓鬼の読経が始まった。

なるほどなーだから忙しいのか。

そんなことを考えながら迎えた送り盆。

マッチ棒を組み木にしてプチ送り火を作ってみたら、

まんざらでもなかったので逆に驚いた。

あがるあがる

次々とお帰りになられる。

またお彼岸にお待ちしてます◎

筑波山の禅僧さま

先月末、月初に訪れた筑波山の件で気になっていたことがあったので師匠のもとへ。

どうもお坊さんがついてきている。

筑波山の上はとても清々しかったけど、行きも帰りも麓の道に差し掛かると浮かばれない御霊がどうも沢山語りかけてきて、頭が痛くなる。

これ、下調べでなんとなく予想はしていたのだけど、麓だけこんな感じになるのが予想外だった。筑波山は大昔から性に寛容な面があったらしく、そういう風習もあった名残で、江戸時代には遊郭に通う僧侶も沢山いたらしいので、そういう関係の浮かばれないお坊さんなのかなと予想してのご供養修行だっのですが、、、

師曰く、

「あんたの修験の先祖も出やすいだろうから、やっぱり陀羅尼かねぇ」

といわれ仏頂尊陀羅尼と大悲心陀羅尼がセレクトされた。最近後ろのお方がやりたがるので日課でも必ずあげている陀羅尼だ。

今回は理趣経をやる気がしていたのでちょっと意外だった。このふたつの陀羅尼だと内容的にも早く終わりそうだし。とかんごえるのは早計だった。

「の〜ぼ〜ば〜ぎゃ〜ば〜て〜」

仏頂尊陀羅尼から始まると、なかなか終わらない。

何度もループする勢い。

陀羅尼が止まらない。

なんとなくまだまだあげ足りない、上がりたい方が沢山いるような感覚。

なんだこれ、大丈夫かな。

あがりたいお坊さんの供養だと思っていたのに、なんかとんでもない数がいらっしゃる。

数回繰り返して大悲心陀羅尼へ。

これも3回ほど巡ってようやく終了。

師曰く、

「いっぱいあがったねぇ。あそこで供養してる途中に死んじゃった禅僧だったね。中途半端になった成仏できなかった人達、あんたに手伝ってもらってみんなあがっていったねぇ」

あー、なんかあげてもあげても終わらない感じはそういうことだったのか。後ろに沢山控えていたとは。。。しかしそんな禅僧さまだったとは。堕落したお坊さんと思っており大変申し訳ありません。まだまだ修行が足りない。

しかし禅僧殿のお手伝いができこちらも行者冥利に尽きますぞ!!

「このお坊さん、あんたに入っていったから。あんたといれば修行できるからね」

なに!?これは初めての展開…。昨年もとある頼りないお坊さんからこちらにうつってきた前科ありの入道がいたけど、まさかちゃんとしたお坊さんがこちらにいらっしゃるとは。有難いお話。

ご先祖様たち共々これからも宜しくお願いいたします、禅僧殿。

ますます陀羅尼に励まねば。

<供養>

仏頂尊陀羅尼

大悲心陀羅尼

後悔のない人生を生きる

新盆。

お盆はご先祖様はもちろん、

無縁仏やご供養が必要な方もわらわらする時期。

そんな時期になってきたからなのか

先日某所の解剖見学でとあるご献体と遭遇。

何やら思い残すことがあるご様子。

師匠のもとでご供養のお経をあげさせて頂いた。

こんなとこでも出逢いがあるとは。。。

人との出逢いで学ぶこともあれば

通りすがりの仏様との出逢いで

教えを頂くことも最近は増えてきた。

この日はもうひとつ、

心を閉ざしてしまった友人に向けて祈祷もさせて頂きました。

2つの案件に共通するのは自分と向き合うこと

願わくば残すのは清々しさ、

もといきよきよしさ。

後悔しない生き方を。

死んだあとは未練なく

清々しい気持ちで身体をほっぽって

上に上がりたいものです。

後悔しない生き方とは

なにかを成し遂げることより

自分を大事に生きること

自分と向き合って生きること

自分をゆるすこと

自分に正直であることなのかもしれない。

そんなことを考えさせられました。

〈祈祷〉

般若心経

観音経

大悲心陀羅尼

〈供養〉

大施餓鬼

仏頂尊勝陀羅尼